36年振りの涙

 何てことをNHKはやってくれたのだろう。

 眠気眼にボーっとした頭でも新聞のテレビ欄を見ていて良かった。もし、見逃して、後からこのことを知ったら、死んでも死に切れない。

 1975年3月にNHKホールで行われた、カール・ベーム指揮ウィーンフィルハーモニックの来日公演の再放送があった。

 もちろん、当時のこととて、映像も音質もかなり懐かしいアナログで、まさに記録としての映像になってしまったけれども、それだけで朝から午後2時が待ち遠しい、ワクワク興奮状態であった。誰彼かまわず。電話やメールをしたくなったりするのは久しぶりだ。

 36年前の3月といえば、高校1年生の春休み直前であった。当時、実況生放送だったかは定かではないのだけれども、僕は確か、最初はFMで聴いたのだ。最初に、まだ国歌ではなかった「君が代」の演奏があって、その瞬間のNHKホールのどよめきの後の静寂がすごく印象に残っている。

 何よりも、今日のオンエアでもやった、ブラームスの交響曲の第一番は、その後、歴史的名演と讃えられるだけあって、実に感動的というか、エキサイティングで、当時も今思い出しても至福のひとときだった。

 比較的、ゆったりとしたテンポで、第一楽章の冒頭の、ティンパニーの連打から、異様に漲る緊張感が伝わってくる。その瞬間から、今日はとてつもない時間を過ごすことになるかも知れないと確信しえた。鬼気迫るベームのタクトに、喰らいついてくるウィーンフィルの、一騎打ちみたいな演奏である。最終楽章あたりで、さすがにベームも年齢を感じさせるというか、息絶え絶えみたいな感じも見せるのだが、逆にウィーンフィルの面々が勝利の凱歌を奏でるようにコーダを迎えると、胸の高鳴りを外に爆発させたい聴衆が一気にブラボー三唱みたいな演奏である。クラシックの演奏会でこんなに高揚した気分になれたのは最初の経験だったと思う。

 翌日の、学校ではその話題で盛り上がったものだ。それまで、帝王カラヤンの信望者の多かった、我がクラスで、いきなりベームファンが増えたのである。

 2年になってからの、音楽の時間だったと思う。この時の演奏をNHKで放送したビデオを、T先生が流してくれた。当時は芸術科目は週一回2時限続けてであり、T先生は、最初の1時限は歌を歌わせ、次の2時限目は、芸術鑑賞と称して、レコード鑑賞だったり、先生が録画した演奏を聴かせるだけのものだった。

 僕はカール・ベームが演奏前に舞台の袖から出てきて、観衆の拍手ににこやかな笑顔で応えている表情が、クルリとオーケストラのほうに向き直ったときに、別人のような厳しいものになることを知った。演奏が始まると、FMの時と同じように、グイグイ引きこまれていくのを感じた。

 演奏終了後、僕は音楽を聴いて、初めて涙を流した。それも教室で・・・。ビデオの映るブラウン管の中でも、同じように涙を流している人がたくさんいた。

 その時と同じ類の涙かどうかは不明だが、36年振りに流した涙。ビデオの中で、「もし、人生をやり直せて、もう一度結婚するとしたら、また彼女を選びます」と嬉しそうに話したベームの頬に優しくキスをする細君のテア。今考えても、カッコイイ台詞だったな。

 36年前のいろいろなことを思い出し、あの頃にワープしたわけでもないのに、涙が出た。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

産毛といううぶなヤツ

1959年1月10日は何曜日だったのだろうか?

午後9時40分 小雪がちらついていたそうだ。

身長 50.5cm  体重 3,075グラム

胸囲 31cm  頭囲 32cm(あの頃から頭でっかちなのか・・・)

出血も少なく、自然分娩だったらしい。

 25年前に母親が亡くなり、その一年後、結婚をして、母親が見ること無かった新築した家に、母親に紹介できなかった妻と住み始めた。その後、敷地内にあった母親と暮らしていた古い家の雨漏りがひどくなったため、取り壊した際、押し入れの隅から、僕や弟の幼稚園、小中学校時代の作文や、絵などと共に母子手帳が見つかったのだった。

 「そんなもん、取っておいてもゴミになるだけだ、くだらねえ!」Imgp5145_3

 家族愛という言葉にはまったく縁のない父親が、吐き捨てるように言って、裏の畑で火をつけて燃やそうとしたところを、妻が機転をきかせて危機一髪で救出してくれ、今は僕の手元にある。臍の緒の入った桐箱も含めて、アルバム以外の思い出の品はほとんど灰になってしまったが、母子手帳の中から、ちり紙に包まれた産毛が見つかった時は嬉しかったものだ。あと、何かの紙くずかと思って開いたら、僕が小学館の月刊誌「小学三年生」に投稿した「いなかっぺ大将」の似顔絵が掲載された同誌のスクラップだったのは涙ものだった。自分ですら忘れていたのに・・・・

 この産毛というやつ、今よりも黒々として毛並みの良いのが、ちょっと複雑な気分になる。

今日、52回目の誕生日。雪が降り出しそうに寒い日だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

牛丼一筋八十年から30年

 カップラーメンと同じく、時折無性に食べたくなるものが牛丼、それもYOSHINOYAの、いわゆる吉牛(よしぎゅう)と呼ばれるものである。僕にとっては青春の味といってもよい。それが創業111年記念で一杯80円引きで21日まで食べられるというのだ。

 「牛丼一筋80年」というCMソングにのって、あれよあれよという間に全国に店舗を広げて、海外進出までしてしまったのは、僕が大学時代であった。ということは、牛丼一筋でなくなってから30年くらいたったのだろうか。当時の並盛りは300円。喫茶店でコーヒー一杯250円から300円の時代であった。高校時代に郵便局で時給300円でアルバイトしていたから、結構、貧乏学生にとってはそれでも高かったなあ。何しろ、当時の中央大学駿河台校舎の生協食堂ではカレーライスやたぬきうどん、きつねうどん、ラーメンが一杯80円で食べられた。つまり、カレーライス&たぬきうどんでも160円だったから、300円の牛丼は滅多に食べられなかった。それでも当時の吉野家の松田社長が中央大学出身であったせいか、その生協食堂の目と鼻の先に吉野家はあって、たまにパチンコや競馬で儲かった先輩に奢ってもらったりしたものだ。吉牛との出会いはまさしく、僕が新入生のときにサークルの4年生の先輩に連れて行ってもらったこの吉野家だった。20100115

 「たまにはこういうのも美味いだろう!300円で安いしな。同じ300円でもコーヒーじゃ腹は膨れないし」

 三重県伊勢の出身のK先輩は、サングラスの奥の目をきらきらさせて、牛丼をワシワシと口の中にかき込みながら、そうのたまったものだ。

 1978年に大学が多摩に移転すると、生協食堂のカレーライスとたぬきうどんが一気に110円に値上がりした。つまりカレーライスとたぬきうどんを両方食べると220円になってしまった。そして、何故か吉野家も後を追っかけて、大学敷地内のバスターミナルの中に開店したが、こちらの値段は変わらなかった。だが、いかんせん、当時の多摩校舎のまわりは僕の実家よりもド田舎で、地名だけは八王子市東中野と都会風だが、多摩動物公園駅から大学裏門まで長く延びる通学路のまわりは雑木林だし、ところどころに「マムシに注意」の立て看板はあるし、白門(大学正門)を出て当たりを見渡せば、まだ藁葺き屋根の家が見えたし、と本当にここは東京都なのか?といぶかうほど。当然、駿河台時代は大学を一歩出れば、喫茶店や定食屋を選ぶのに苦労しなかったのに、陸の孤島然とした状況の中、必然的にひとたび大学に来れば、一歩校外に足を踏み出せば、いつ食べ物にありつけるかわからない、餓死と隣り合わせの厳しい現実が待っているものだから、必然的に吉牛のお世話になることが多くなった。

 特に、午後9時に所属していた合唱団の練習が終わり、校地の結構端の方にある練習場から15分ほど歩き、バスターミナルにて本数の少なくなったバスを待つ間、どうしてもフラフラと吉野家の中に入ってしまう習慣ができてしまい、おまけに、当時、飲み会のあとは新宿の深夜喫茶やゲームセンター、ビリヤード場などで過ごし、始発電車に乗り込む前に、やはり吉牛である。例え、その飲み会を養老の滝でやったとしても、養老牛丼には目もくれず、吉野家にて締めの牛丼大盛りに生卵に味噌汁で500円という定番メニューであった。ひどい時には一日三食牛丼というときもあった。そのうち朝、起きてみたら角が生えていたり、血液型がY型に変わってしまうのではと心配するほど、食べまくったのである。

 そして、牛丼を食べる度に、K先輩のサングラスを思い出すのだ。10年ほど前にOB会で顔を合わせたきりだ。どこでどうしているのやら・・・相変わらず、牛丼食べてるだろうか。

 「つゆだくなんて邪道だなあ。そんならお茶漬けでも食えばいいのにな」

とでもつぶやきながら・・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

継続は力なり ちから~、ちっから~ CHUO! CHUO!

 やってくれましたね~。控えめに4位ですが、26年連続のシード権確保と82回連続85回目の出場が決まりました。6区の山下が山梨と併走していたときに、道路にはみ出してきた観客をよけようとして転んでしまったときは、どうなるかと思いましたが、最後まで気持ちを切らすことなく走りきったのは凄かったですね。

 中央大学の場合は優勝はもとより、なんといっても連続シード権、連続出場という伝統が否が応にも無言の圧力、プレッシャーなっているので、怪我で途中棄権なんてことになったら・・・いや、良かったです。

 僕の在学中は、かつての栄光はどこへやら、予選会からの出場が多く、まさに伝統校、古豪という呼称にもカビが生えかかっていた時期でしたが、ここ4半世紀にわたり、上位に食い込んでシード権を確保しつつ、戦前から82回も出場し続けるというのは本当に物凄いことなのだと思います。特に今回は以前の藤原や上野のような絶対的なエース級が不在で、1万メートル28分台の選手が一しかいない状況での、まさに総合力で喰いこんだ4位ですから立派だったですね。残念ながら、今年の目標だった出雲、全日本、箱根の三大駅伝ですべて3位以内というチームの目標は不完全燃焼に終わってしまいましたが、このチーム状況ですべて上位ですから本当に来年が楽しみです。

 こうなると、是非100回出場を97回連続出場で、しかも41年連続のシード飾って欲しいと思っていますし、100回連続103回目の出場を44年連続のシードで果たして欲しいと思います。もちろん、それまでに総合優勝も何回かして最多優勝記録も更新して欲しいのですけれどもね。なにかそれを見届けるまでは絶対に生きていたいものですが・・・。 

 さて、明日からお仕事ですので、駅伝がなくても早起きしなくては・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

箱根駅伝と大学ラグビー

 日本テレビが箱根駅伝を中継し始めて20年くらいになるだろうか。おかげで、正月の2日と3日は早起きをするようになりました。今日は特に早起きして大手町での往路スタートを見送り、レースの経過を気にしながら、明治神宮に初詣し、母校の健闘を祈念しました。

 本来ならば優勝をお願いするんでしょうけど、昔から控えめな性格ですし、母校の中央大学自体も地味い~な校風ですから・・・、とりあえず10位以内に入り、26年連続のシード権をとって、82回連続85回目の出場の(母校でしか達成できない筈の)3大記録の更新をお祈りした次第です。

 いつもならテレビで、ビールを飲みながら赤いCの小旗を振り振り応援しているのですが、今日は国立競技場で行われたラグビーの大学選手権準決勝2試合を観戦してきました。大学選手権準決勝を国立で観戦するのも実に久しぶりです。何しろこの前は同志社大学3連覇中で、大八木が5年生で出て、スタンドから野次られてたし(笑・・・)、確か天理大学も真っ白なユニフォームで出ていたような気がします。

 ラグビースクールでの教え子たちが、今、何人か関東大学ラグビーに進んでいて、たまたま東海大学と帝京大学にもいるものですから、応援に行きました。といっても、残念ながら一本目ではないし、スタンドにでもいたらつかまえて、激励してみようと思ったくらいの軽い気持ちです。本当なら母校も大学選手権に出て欲しいところですし、特に今年まではやはりスクール時代の教え子がいたりしましたので残念でしたが、陸上部や野球部と違って、大学指定の強化運動部にはなっていないので、なかなかチームの強化は難しい中、関東大学リーグ戦グループの中で創設以来唯一、二部落ちしていないというこちらもあまり派手さはないが、地味な記録を更新中ですので、本当によく頑張っているなあと思っています。

 決勝戦は、奇しくもというか、東海VS帝京という組み合わせになりましたが、当日は仕事で応援にはいけないので、なんとか一声かけてみたかったのですが、こちらも願いはかないませんでした。いつもなら二人のお父さんはスタンドでお見かけするので挨拶をするのですが、秩父宮や熊谷と違って、国立はちょっと広すぎたかな・・・。

 携帯で駅伝の結果を確認しながらの観戦でしたが、駅伝もラグビーも結果は上々でした。でも、東海と帝京の決勝戦では、観衆の入りが心配です。今からでも国立ではなくて秩父宮に変更した方がいいでのでないでしょうか。でも、あまり国内ではお目にかかれない大型FW同士のぶつかりあいで白熱したゲームになるのではないでしょうか。

 明日は日中、新年会が入っているので、いつもトイレに立つ振りをして、会場のロビーで駅伝中継を見ているのですが、今日の往路4位という結果はいろんな意味で微妙だなあ・・・、まあ、僕一人くらいトイレから戻らなくてもさほど問題ないんだけどね~。東洋がよほどこけない限り優勝は動かないでしょうけど、4位といってもシード権が絶対とは言えませんからね~。と、あくまでも控えめで謙虚な私でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«始まっちゃった2010年 元日雑感