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結婚式記念日

 今日、11月29日は19回目の結婚記念日である。決して結婚記念日ではない。

 正確に言うと、19年前の今日、結婚式をあげたことになっているので、当日を記念日とはいわないと思うから18回目の記念日というのだろうか。 なぜ、結婚記念日とはいわないか、というと正式に婚姻届を出したのは12月2日であるからで、この日が結婚記念日ということになるのだが、妻はどうしても「11月29日が私たちの結婚記念日よね」と言い張っている。

 1129で「いい肉」の日だから、今日は血も滴るようなステーキで、ワインで乾杯! という雰囲気はとうの昔に失せてしまっている。 去年などは、まったく忘れてしまったくらいで息子からも相当ヒンシュクをかったものだ。 そういう意味では、あんまり結婚当初ほど気分が盛り上がるとは、文字通り「いいにくい」日となっている。

 本当は「いい夫婦の日」である11月22日に式場をおさえてあったのだが、妻のほうの実家の親戚で法事があるから変更してくれ、と言われ、やむなく1週間延期したのだ。ただ、招待状の印刷をかけてしまった後だっただけに、彼女が私の目の前で両親を前に「私の結婚と親戚の法事とどっちが大切なの!」と大声で喧嘩していたのを昨日の事の様に思い出す。 当の親戚のかたからは、式の当日「『お目出度いことを優先してもらって結構だ。法事はいつでもできるから、予定通りやってくれ』と言っておいたのにねえ、ごめんなさいね。」と言われたものだから、多分、あちらの両親が先に言われていた法事のことを忘れてしまっていたのが恥ずかしくて面と向かって言い出せなかったのかもしれない。
 実は最初に22日と29日の二案をもって、あちらの両親に相談に行ったのだが、実家の住所が11番22号であったり、両親の結婚記念日も、月は違うものの22日だったりで「よほど22という数字は私たちに縁がある。是非22日にして欲しい」と言い出したのは、あちらの両親だったのだから、彼女が怒るのも無理はなかった。

 憤懣やるかたなく、「親子の縁を切ってでも、22日に結婚する。あんたらは出席しなくていいから!」なんてまくしたてだした彼女に「結婚式は29日でもいいじゃないか。婚姻届を22日に出せば、実質的には22日が結婚記念日だ。」と耳打ちして、なんとか、その場を収めたのだが、それを向こうの両親には内緒で決めてしまったことから、後からとんでもない事件に繋がってしまう。

 29日の挙式に向けて準備もとどこおりなく進んで、式の一週間前、22日になって、当初の予定通り、私たちは市役所に婚姻届を提出した。と、いっても土曜日の午後だったので、日直のかたが受理してくれたが、一応これで、正式に夫婦となって、彼女の苗字は私と同じになったのであった。 住民票の異動届は、月曜日以降でないと受けられない、とのことだったので、書類上は、彼女は戸籍上は新しく編制された私の戸籍に入り、苗字が替わり、住所は依然のとおりなので、両親と同居している、という形になった。 ヤレヤレ、ホッとしたのも束の間、翌日曜日の夜のことだった。 突然、彼女から取り乱した様子で電話がかかってきた。

 「また、うちの親が余計なこと始めたのよ! 嫁入り道具に私名義で新車を買う契約をしたから、明日、住民票をとって来い、って言い出したの。 そんなこと、今まで聞いてなかったのに、もう信じられない!」

 住民票を持っていったら、住所は替わっていなくても、苗字が替わって、続柄が同居人になっている、内緒で、すなわち、22日に婚姻届を出したことがバレてしまう。 結婚式を目前に控えて、紛争が再度勃発してしまうことになる。  

 すぐさま、事情をききに彼女の家に行ったら、彼女はフテクされて自分の部屋に閉じこもってしまっているし、両親は「せっかく、新しい自動車を持たせてやる、というのに要らない、と怒っている。 とんでもない親不孝ものだ」とカンカンの状態であった。

 「一旦、うちの娘の持ち物として登録して、持たせたいので、車庫証明もうちの地番で取ってきてくれ、車検証の所有者氏名も今の氏名で、送り出したい」という、娘を思う最後の親心だと、いうことらしい。

 翌月曜日早朝、始業前の市民課の窓口に出向き、事情を話したところ、まだ、正式な受理の手続きをしていない、ということで、本当はいけないのかも知れないが、一旦、提出した婚姻届を戻してもらった。

 収まらないのは彼女のほうだった。 自分の人生を親の玩具かなんかのように弄ばれた、と言ってカンカンに怒り、結婚式の前、家を出る前のお決まりのイベント、三つ指をついて「お父さん、お母さん、お世話になりました」も、一切しなかったらしいし、それどころか、その日から、式の当日まで「一切口をきかなかった」と言っていた。彼女はそういうことでは冗談をいう性格ではないので、多分本当なのだろう。

 披露宴の最後に涙を誘う両親への花束の贈呈は、当初から予定していなかった。 それについても向こうの親もかなりブツブツ言っていたのだが、「両家の親の連名でお客様を招待しておいて、最後に自分たちが花束をもらうところを見せるのは失礼なのではないですか?」と、これは私が持論をぶち上げて、説得したのだ。 「費用は私たちの資金で賄う以上、私たちの連名で招待状をお送りしたい」という私の提案を、「私たち両親に恥をかかせるつもりか」と一喝されて、親の名義での招待状にした以上、その時点で花束の贈呈は行ってはならない、と考えて十分に理解をしてもらったつもりだった。 最近は、双方の親の連名ではなく、本人たち名義で招待状を送っているので、花束贈呈は文句なく許されるだろう。 しかしながら、このことについても、後から、あちらの親だけでなく、いろんな人にいろいろ文句を言われたものだ。

 「花束贈呈がない披露宴はクリープのないコーヒーみたいなものなのよね・・・」云々

 私の親の方はいえば、全部私にお任せであったので、随分楽だった。 「子どもは、親が教育したようにしか育たない。 お前がそう考えているんなら、俺がそう教育したんだろう。」てな具合である。 

 さて、紆余曲折を経て、なんとか式と披露宴をこなした私たちだったが、まだ婚姻届を出していなかった。 彼女が「悔しくてたまらないので、親の思いどおりに29日に婚姻届を出すのはやめてくれ」というのだった。 来年、「今日は結婚記念日だね」と向こうの親が言ったときに、「あんたらは娘の結婚記念日も知らないの?」と毒づいてやるんだ、と言う。(こうなると相当根深いものがあるよね。)

 「じゃ、いつでもいいんだよね。」と彼女に了解をとって、彼女も両親もこだわったのが「22」だったのだから、ということで婚姻届を12月の2日に届け出た。 よって、私たちの結婚記念日は12月2日なのだが、最近、かみさんは11月29日がそうだといってはばからない。

 あんなに喧嘩して大騒ぎしたかみさんの両親もすでに、この世になく、今は「ああ、そんなこともあったね」と「いい思い出」として、当時、強烈に意識をせざるをえなかった結婚式記念日から「式」をとってしまえるような心のゆとりができたのかも知れない。

 

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正義の味方だ ザンパンマン!

 やってしまった。久々に・・・。 

 別に朝食抜きだったわけではない。ただ、職場についた頃から、無性に腹が減っていた。始業前に、ガサゴソと机の引き出しを開けて、いつ貰ったかもわからなくなってしまった煎餅などボリボリ食べていたのに、いっこうに空腹感はやまない。
 結局、昼休みにコンビニに行って買ったものはといえば、屋台風塩焼きそば(あまり屋台で塩焼きそばを売っているのを見たことがないが・・・)、ミニ麻婆丼(ちょっと、豆腐が少ないぞ)、カレーうどん(これがよく温まっていなかった、カレーはともかく、うどんは冷たいままだった。がっかり・・・)、カップスター焦がし醤油味(最近お気に入りです)の4品。
 割り箸は1膳分でいいのに、店員が割り箸の袋を4つ入れる気配を感じながら、まだおにぎりコーナーの鮭おにぎりを未練がましく見ていて、言いそびれた自分が情けない。

「本当にそれ全部食べるんですか?」
 控え室のテーブルに所狭しと並んだ私のランチを見て、人材派遣会社から来ているNさんが呆れた表情を向ける。
 「腹がすいている時に、買物するとだめですよね~。かといって朝っぱらから弁当のことなんか考えられないし・・・」
カップスターにお湯を注ぎながら、答えになっていない回答を伝える。
20分後、流しで空になった器を洗っていると、
「あらま、本当に食べちゃったんですか~?」
まるで化け物でも見るかのような表情だ。
「ええ、何とか」
 短くなった麺が混ざった焦がし醤油風味のスープが食道を逆流し、ベコ牛ではないが、再び口の中で反芻し(キタネエな~)お愛想笑いを浮かべながら、胃腸薬を飲むために水道の蛇口をひねったのであった。

 「本当に、見ていて気持ちいい食べっぷりネエ・・・」

 20年前になるだろうか。 カツ丼の最後のカツの一切れで、丼の底に這いつくばっている飯粒どもをかき集めて、今まさに口に運ぼうとしていた瞬間に、結婚する前の、まだ苗字の変わっていないカミさんがため息混じりにつぶやいたものだ。 後で聞いた話では、この喰いっぷりも私との結婚を決めた結構重要な要因だったんだそうな。
「だって、いくら料理失敗しても、『美味しい、美味しい』って全部食べてくれそうだったから・・・」

 彼女の目の前には、一回り大きめな丼が置いてある。もちろん、彼女が食べたものではなく、とりあえず、大盛を食べ終わった私の丼と、食べ残した彼女のカツ丼と置き場所をトレードしたものだ。食道とかレストランで、自分の前だけ、何も置いてないと、落ち着かないものだ。

 私は、かつて、自他共に認めるかなりの大食いであった。 なにしろ、ピーク時には今よりも14キロも重かった。 いわゆる痩せの大食い、という類ではない。食べたら必然的に太る、のである。 私の体重は、結構、短いスパンで乱高下を繰り返している。 ベストだと思っている体重は72キロ。今はそれより4キロ軽い。 体重が体調のバロメータといってもいいだろう。

 かといって、TVチャンピオンのように、ひたすら同じものを食べまくる、というのは苦手である。できれば、小さめの皿がたくさん目の前に並んでいて欲しい。 そして端っこの皿から、順番に一皿ずつ平らげていくのが私の食べ方で、決して、神楽坂飯店の一升炒飯や皮の厚さ3センチ、全長35センチのジャンボ餃子ような巨大な食べ物にむしゃぶりついていく、というのは私のスタイルではない。 

 それに比べて、カミさんとくれば、よせばいいのに、あれもこれも、と注文して、あっちの皿をチョビ、こっちの皿をチョビ、そしてすべての皿をほぼ均等に満遍なく残す、という特技を持っている。 そして、仕上げを担当するのは正義の味方、愛と真実の人、ザンパンマンの登場である。(なるほど、このための結婚だったのか・・・今更気づいても遅いワイ)

 歳のせいか、子ども達も大きくなってあまり食べ物を残すことがなくなった、ということもあってか、自分の大食いも、なりを潜めていた感があったのだが、最近、胃腸の調子がすこぶるよい。時折、発作的に「無性にアレもコレモも食べたい」という衝動に駆られてしまう。 冬眠に備えて食いだめをするヒグマのごとき状態といってもいいだろうか。ヒグマなら、冬眠から目覚めたときには見事に減量に成功していようが、冬眠のない自分を待っているものは?・・・考えてみただけでも恐ろしいことだ。 

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警察の取調べを受けたことがありますか?

相変わらず物騒な事件が続いている。
「兄貴のところは、男の子だけだからな・・・」
娘2人をもつ弟夫婦の、心配は確かに尽きないことだろう。

警察の取調べを受けたことがありますか?
自慢でも何でもないが、私は何回も経験したことがあるのです。

つい、この間も、取調べではないが、私の職場に対する嫌がらせというか、いたずらというか、警察の見解では「実害がないのだから事件とはいえません。」という位の、私にとっての事件があり、刑事さんと2時間ほど話をする機会があった。
「最近、いろんな事件が増えてましてネエ。こういう軽易な問題には正直、警察もかかわっておれないのですよ。できれば、被害届というのではなく収めていただければ幸いなんですが・・・」
「はあ~? それって桶川の女子大生殺人事件のときに指摘された警察の怠慢っていうやつとなんら変らない、ですよね」
「いや、今回のことは、そんなストーカーとか、殺人にからむような内容ではない、単なるイタズラだ、ということですよ」
あくまで、事件ではなく、イタズラだ、と言う。 つまりヤル気がないって、いうことだ。
こちとら、たまの休日なのに「警察から現場の責任者に立ち会ってもらいたい」という要請があったから、出てきたというのに・・・。
ただ、私たちの職場のように「いやあ、人手不足なもので申し訳ないです」
という言い訳を一切しないのは、立派なものだ。そりゃ、そうだ。
彼が愉快犯によるイタズラだと断定した今回の件について、警察官が入れ替わり立ち代り2時間の間に4人もやって来て、同じようなことを訊き、同じような写真を撮っていったのだ。人手不足である筈がない。

以前、親父がある衆議院議員の地元後援会の役員だったとき、私は小学6年生だった。毎日、遅くまで帰ってこない父親、母親は何も言わずに耐えていたのを覚えている。
祖母は、おろおろしながら、毎朝のように「学校で、お父さんのことを話してはいけないよ」と、言っていた。
その議員の秘書という人からは、「旦那さんのおかげで、先生は大変迷惑をしている。先生には関係ないんだから!」と、毎日のように母親に電話がかかってきた、という。
よっぽど、「あなたに言われたとおりに主人はしただけです」とお袋は言いたかったに違いない、と思えるようになったのは、それから10年以上のたってからだ。
「ねえ、旦那さん、これこれこうだった、と言ってもらえば、このまま帰ってもらえるんだけどねえ」
「同じ後援会の○○さんと××さんが、こうだと言ってるんだから、そうじゃなかったんですか?」
「だけど、それは事実とは違います。」
結局、親父は何も罪に問われることはなかったが、父親にはその後、「俺はもう選挙なんてこりごりだ。お前も政治家と仲良くしてはいけないぞ」と言われた。小学6年生には難しすぎてよくわからないことだったが。

祖父(故人)も、戦前、危険思想の持ち主として警察に連行された、という話を親類からきいたことがあった。
直情径行な父親と違い、いつも、物静かに本を読んでいるか、植木の手入れをしているかだけの印象しかなかった祖父だったので、かなり意外な感じがした。

私が高校に入学したときは、学生運動の終焉期ではあったが、入学式の式場に入る直前に、民青や社青同の人たちからビラを受け取って、そのビラをもったまま体育館に入ったことが強烈に印象に残っている。
別の組織の人からは校門の前で、「沖縄返還協定締結反対! 沖縄は日本にではなく琉球民族に返してあげましょう!」という署名活動に協力を求められたりもした。
その話を祖父にしたところ、「政治に決して関わってはならない。政治家というのは決して自分で責任を取らないから」
いつもは優しい笑顔を絶やさない祖父がその時ばかりは、怖い顔をして毅然と言ったものだ。

高校の入学式のときの思い出は、実は私にとってはかなりの「重いで」なのだ。実は、その入学式の前日。私の一番下の弟が5歳で突然この世を去った。急性心不全ということだったが、病院ではなく自宅での突然死ということで、両親は、その夜、悲しむ間もなく、警察の取調べを受けた。
春とはいえ、肌寒い晩だった。折りしも、テレビでは翌日予定されている国労のストライキの話題で賑わっていた。
「お子さんにかけていた生命保険はいくらだった?」
「夫婦仲は、最近おかしくなかったか?」
「何かおかしなものを食べさせたのではないか?」
矢継ぎ早に、しかもかなり事務的に質問を浴びせられて、母親は泣きどおし、父親は怒りに震えながら、受け答えしていた。
「大変、お気の毒ですが、職務上、失礼なことをおききしました。申し訳ない。」みたいなことを最後に言って帰っていった。
「太陽にほえろ」や「刑事くん」なんて刑事もののTVドラマが流行っていても、
私は、その日から警察というものにある種の距離感を感じはじめていた。

10年前に自分の娘が、事故で3ヶ月にも満たない短い生涯を閉じたとき、
自分の身にも同じような場面が訪れようとは思わなかった。
歴史は繰り返すのか? やはり、自宅でのできごとだった。 妻の実家から贈ってもらったひな人形を飾った翌日の出来事だった。

私は出張中。いや、正確には、出張の帰りに、上司と居酒屋で酒を飲んでいたときに上司の奥さんが店に駆け込んできたのだ。まだ、一般には誰も携帯電話なんて持ち合わせていなかった時代だ。 私が酒臭い息を吐きながら病院にたどり着いたとき、娘の心臓はとまっていた。

娘の亡骸とともに家に戻ったとき、玄関先には二人の刑事が立っていた。
「お子さんにかけていた生命保険はいくらだった?」
「夫婦仲は、最近おかしくなかったか?」
「何かおかしなものを食べさせたのではないか?」
まるで、ビデオテープを再生しているかのように、同じ場面が繰り返された。
「ご協力ありがとうございました。娘さんにはご愁傷様でした。」
二人の刑事が帰り、冷たくなった娘に手を合わしていたとき、電話がなり、
「県警本部の刑事がお話をお聞きしたいということで、こちらに、向かっております。取調べが済むまでは、ご遺体を警察にお預かりいたします。」
30分後、再びビデオテープが再生され、かの刑事はこう言った。
「事故死か、他殺か、検証するために、娘さんを解剖しなければなりません。ご協力お願いします。」
「なんの外傷もない2ヶ月の娘の遺体にメスを入れて切り刻むんですか? とんでもない。 お断りします。」
「ご協力いただけなければ、埋葬は許可されません。このまま警察署の遺体安置所に置きっぱなしです。それでもいいんですか? 職務上、いたしかたありません。是非、ご協力をお願いします。」
遺体安置所といっても、冷え冷えとしたガレージの片隅だった。交通事故で亡くなった20代の若い男性の血だらけの遺体が、娘の寝かされたベッドのすぐ脇に横たわっていた。外は、チラチラと雪が舞っていた。
「職務上、いたしかたありません。ご理解とご協力をお願いします。」
普段、自分が仕事で使い慣れている言葉が、なんと重く冷たく響いたことだったろう。

その翌日、小止みなく雪が舞い落ちる中、病院の裏玄関で、包帯だらけのミイラのように変わり果てた姿となった娘を見て、私は、隣にいた弟の肩に顔を埋めた。そして、自分を猛烈に責めたてた。

娘の変わり果てた姿に泣き叫んだのではない。親として最後に娘にしてあげたことが、娘の綺麗だった身体に縦横無尽にメスを入れることを承諾したことだったことに対する、自らへのどこにも持って行きようのない怒りと悲しみがあふれたのだった。自省というか自問自答は、10年経った今でも続いている。

娘の葬儀の日も雪だった。
「葬儀のときに雪が降るのは、『いつまでも私を忘れないように。雪を見たら思い出してくださいね』と故人が願っているんだそうだよ」
納棺の後、降りしきる雪をぼんやりと眺めていると、静かな口調で叔母が語りかけた。

雪を見ると、そのときの思いがこみ上げてくる。
私は、それ以来、大好きだったスキーに出かけたことがない。

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尻のでかい奴は野球部へ but メガネの奴は卓球部へ

 僕が昔、野球少年だったことは、前に記した。もっとも、僕らの小学生の頃は、それ以外考えられなかったのだ。なにせ、「巨人、大鵬、玉子焼き」が日本全国子どもの大好きなものの代名詞だった時代だ。
 もちろん、関西や名古屋では、巨人のところが阪神や中日になっていたのだろうが、子どものやるスポーツといえば野球だったのだ。
 当然、僕らも放課後になると近所の空き地に集まっては野球に興じたものだし、学校帰りに隣の中学の野球部の練習を見ては「いつかは僕も」と憧れたものだ。僕にとって、中学生になるということは、野球部に入ることとイコールだった。
 当時は市内の小学校対抗ソフトボール大会というのが毎年春に行われていた。5、6年生から選手が選抜されて学校代表として毎日放課後練習をするのだが、運良く僕も5年生でメンバーに(補欠だったが・・・)選ばれた。
 同級生の多くが下校していくのを尻目に、多くの6年生たちにまじって練習に明け暮れるのは、ささやかながら自尊心を満足させてくれた。
 僕は大抵センターかライトを守っていたのだが、あるとき、後ろから声をかけてくる人がいる。
「おまえ、6年生か?」
 振り返ると、隣接する中学の野球部の顧問の先生だった。小柄で真っ黒に日焼けした顔にギラギラした目をしていた。
この先生は、高校時代にキャッチャーとして甲子園に出場したことがあるというので、かなり有名な存在だった。
「いえ、5年1組のMです。」
「やあ、いいカバーリングしてるな。打者ごとに的確に守備位置もかえているし、いいセンスだな。」
先生は、かしこまっている僕を上から下までジロジロと見ていたが、いきなり、近寄ってきて、僕の尻を「パン!」と叩いたのだった。
「特に、この尻が気に入った。これくらいデカイ尻で上背があって、足が短くて重心の低いやつが欲しかったんだ。おい、お前、中学になったら野球部に入れ」
「はい、そのつもりですけど」
ちょっとひっかかった言葉があったが、僕はドキドキしながらこたえた。
「お前をエースピッチャーとして鍛えてみたい。頼むぞ!」
先生は、そういうと自転車にまたがって中学のほうに帰っていった。
僕は確かに体型的に、「尻がデカイ」というのが定説になっていた。というより上半身に比べて異様に下半身が発達していたようだ。
腕や胸はむしろ、やせ気味だったのに、尻から太腿にかけては肥満気味といっても結構ご自慢の筋肉質だったのだ。
さすがに、小学1年生から往復7キロの道のりをランドセルを背負って登下校してきた積み重ねである。
僕は、恥ずかしながら、鉄棒の逆上がりが苦手だったのだが、それも、皆に言わせると「お前は、ケツがデカイから重くて持ち上がらんのだろう」ということになっていた。
裏返せば、重い下半身を持ち上げられるだけの上腕の筋肉がついてない、ということなのだが、それでエースになれるのだろうか?
とりあえず「エースピッチャー」の一言に僕は有頂天に舞い上がってしまっていた。その後、どんな練習をやったか上の空だった。
下校時には「巨人の星」の主題歌が頭の中を駆け巡り、家にある自転車の古チューブで「大リーグボール養成ギブス」ができるかしらん?などと妄想にかられた。
結局、5年生のときは正選手になることはできなかったが、チームの監督だったT先生にある日、呼び出されて、
「中学のK先生から、『Mを何故正選手にしないんだ?』といわれたんだが、私は野球の経験がないので、よくわからない、と申し上げた。
君にはまだ来年があるから、勘弁してくれ」とまでいわれたので、ますます愚かな誇大妄想がアドバルーンのように膨らんだのだった。
心はすでに中学を通り越して、僕にとっての青雲高校はどこなのだ? 巨人は果たしてドラフト何位で僕を指名してくれるのだろう?等々
もちろん、なにごともプラス思考に働いているときの悪い癖で、地元の少年野球チームでは6年生を差し置いてキャプテンに名乗りを上げ、
背番号も13番(王の1番と長島の3番を併せ持つ)じゃなきゃいやだ。と、自分勝手なわがまま三昧をやったものだ。
でも、もちろん、しっかりと、巨人の星をつかむためのトレーニングは続けていた。
電柱の陰から見守る明子姉さんの姿はなかったが毎日兎跳びをやったり、素振りをしたり、屋敷林のケヤキの木にホームベース大の的をぶら下げて、ピッチング練習などである。
K先生とくれば、顔をあわせる度に「待ってるぞ!」といいながらポンと尻を叩いていく。
今考えれば、あの先生、ホモだったんかいな?みたいな感じだが、僕は尻を叩かれるたびに一歩一歩エースのマウンドが近づいてくるのを感じていた。
だがしかし、世の中はそう甘くはなかった。
夕方遅くまで、ただでさえ暗い屋敷林の中で的当てピッチングをしたせいか、もともとあまり良くはなかった視力が日増しに落ちていく。
ついに6年生になる頃には、メガネが手放せなくなってしまったのだった。
つまり星飛雄馬からいきなり左門豊作になってしまったとですタイ。
当時、私の住んでいたごたる田舎では、小学生でメガネばかけとっとは珍しかったですタイ。
視力検査や授業時間には、「おい、あれが見えんとだってさ」ていうヒソヒソ声があちこちで聞こえ、メガネばして廊下ば歩けば、そうよが脇によって僕が通り過ぎるのば見守る。
なにやら異邦人になった気分であったが、こと野球やソフトボールに関して言えば、空振りが減って打率が上昇ていう好結果ばもたらしたのであった。
星飛雄馬の針の穴ばとおすコントロールとまではいかんが、狙ったところへの配球も格段に精度があがったとタイ。
いやあ、熊本弁は難しかあ~、ばってん、カレーにタイ米はあうタイね~。
ますます、巨人の星は近づいたか、に思えたのであったが、ばってん・・・

メガネをかけた僕をみたK先生は、いきなり
「目の悪い奴は野球部にはいらん! 卓球部にでも行くことだな」
とつれない一言を残して、以後、僕の尻を叩くことはなかったのであった。
確かに、メガネをかけた野球選手なんて珍しかった。でも、でもさ、
「巨人にも国松とかいたのになあ、打席では柴田だってメガネをかけていたのに・・・。」
僕は、すっかり巨人の星の夢から奈落の底に落とされ、途方にくれたのであった。
そして、K先生の呪縛の一言に操られるかのように、友人・先輩たちの誘いを断って、中学では野球部ではなく、卓球部に入部してしまうのであった。
思えば、この一言が僕の巨人の星物語のエピローグであり、暗い青春時代のプロローグであったのだ。
せめて、あの頃、「稲中卓球部」が流行り、「卓球温泉」「ピンポン」が上映されていたら、愛ちゃんが活躍していてくれたら、あんなに暗い青春時代は送らなくても良かったかも知れないのだ。(事実、僕の中学の卓球部の練習場は、照明が暗くて、ますます視力が落ちていったのだ。)
でも、まあ、そうはいっても、女子卓球部には可愛い子が結構いて、それなりに楽しかったけどね~。

 中学2年の夏、プールの時間だったが、同級生でもある野球部のピッチャーだったNが僕を見て、いみじくも言ったものだ。
「この前のプールのとき、K先生が、Mのほうを見てて、『やっぱり、お前より、あいつが欲しかったな』って言ってたけど、今からでも野球部に来ないか?」
「てやんでえ、誰があんなホモ野郎のところにいくもんかよ~! 俺の青春を返してくれ~、って言っとけ!」
それをきいて、Nは、まじまじと僕の顔を見て言ったのだ。

「キッ、君たちはそういう関係だったのか?」

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気は優しくて力持ち

 今日の昼休み、電話があって、ラグビースクール時代の教え子で長男の友人でもあるT君が見事、花園出場を決めた、とのこと。 彼の高校が県大会で優勝したのは、新聞で読んで知っていたのだが、彼がレギュラーに定着していたのを、今日知らされたのだ。 本当によかった。

 彼のお父さんも学生時代フォワードをしていたので、体格にも恵まれて、小学生のときから100キロを超えていたのではないだろうか。 彼ら親子が車から降りた瞬間、車体が上下に揺れるくらい恵まれた体格である。おまけに彼のお兄さんも負けず劣らずの体型なので、「ああ、やっぱり国産車じゃ窮屈だよね~」と思ってしまうのだ。

 そんな彼でも、気持ちは実に優しい子どもで、最初の頃は、タックルに入るときにどうしても手でフワッとはいってしまうクセがあった。 きっと小さい頃から、あまりの体格ゆえに、他の子どもらには優しく接するようにしつけられていたのかも知れない。

 「そんなタックルでどうする! 相手が倒せるか!」 親父でもあるコーチの声に、グラウンド上で泣きべそをかいたシーンを何回もみたものだ。 普段の生活とグラウンドで180度気持ちを切り替えることができるか、も格闘球技ラグビーの難しさかもしれない。

 どちらかといえば、彼よりもふたまわりも小柄な子どものほうが、元気いっぱい声を出してグラウンドを走り回っていたことが多い。 「気は優しくて、力持ち」 いつも物静かな雰囲気を漂わせるT君に転機が訪れたのは、6年生の夏だったと思う。 他のスクールとの交流試合のときだった。

 両チームかなりの人数でのラックが形成され、パイルアップ状態となり、笛がなって、選手がひとり、またひとりとラックから離れていき、彼らの一番下敷きになって最後に地面に倒れていたのがT君だった。

 彼はなかなか立ち上がらない。じっとグラウンドに突っ伏したままだ。

「ケガでもしたのか?」とコーチが駆け寄り、肩に手をかける。

「う、う、う・・・」とうめくような声が聞こえ、両方の目から涙があふれている。

 両側から抱きかかえられて、彼はようやく歩き出すことができた、というより自分の足で立つこともできないようだ。ゲーム再開後も、彼は椅子に座って下を向いたまま、泣きじゃくっていた。大粒の涙がボロボロとあふれていた。 ケガをしていたわけではないらしい。

 後できいた話だが、パスを受けたとたんに何人もの相手にタックルを受け(まあ、なにしろ彼の図体だから、一人では倒せないものなあ・・・)、倒され、その上に敵味方が入り乱れて、倒れ掛かってきて、何人もの手足が自分の体をたたき、踏みつけ、自分の意思で自分の体を自由に動かすことができなかったのだという。 

 「それが悔しくて、悔しくて、悲しくて、悲しくて わけがわからなくなってしまったんです!」
とのことだった。

 彼は結局、その後ゲームに戻ることなく、最後までしゃくりあげながら涙を流し続けていた。

 「誰でも経験することです。 こうやって皆、大人になっていくんです。」

 傍らで、父親が息子に目をくれることなく、続くゲーム展開に目をやりながら、ポツリと、しかし、はっきりした口調で言ったものだ。

 T君のプレーぶりが突然変異をとげたのは、その翌週の練習からであった。大きな声でコーリングし、積極的にボールにもからむようになった。動きも格段にきびきびしたものなった。 でも、普段は、いつもどおりの優しい目をチームメイトには向けていた。 ラグビーをやっているときと普段で、別人のように目つきが変わったのだ。 こういう子は、ラグビーが面白くなってきている筈だ。 本当に、いい意味で一皮むけたのだった。 

 ラグビースクールでラグビーに親しんでも、大半の、というより9割以上の中学にはラグビー部はない。 6年生の後半になると、中学でもラグビーを続ける・・・他の部活動を平日やりながら、土日はスクールのジュニアチーム(中学生)で活動を続けるか、それとも、きっぱりとラグビーをやめるか、みんな真剣に考えるようになるが、「彼は中学、高校に行ってもラグビーをやり続けるだろうな」 T君については、周囲も自然とそんな見かたになっていた。
 はたして、彼の仲間たちはほとんど、私の長男も含めて、中学になってもラグビーを続ける選択をしてくれた。 コーチ陣は狂喜したものだ。

 そして、バスケットボールをやっていた彼のお兄さんも、そんな弟につられるように中学3年になってからラグビーを始めた。 そしてラグビーでも強豪といわれる高校のラグビー部の門をたたいて3年間、ラグビー部は花園に出場し続けたが、結局、彼はレギュラーにはなれなかったが頑張りとおした。 これはこれで、とても立派なことだと思う。

 だから、T君には、そんなお兄さんの分まで高校でがんばってもらいたい、と思っていたのだが、彼はお兄さんとは別の高校を選び、そしてラグビー部の門をたたいた。 ケガもあって、なかなかレギュラーの座をつかめなかったが、最後の最後で、彼はレギュラーとして花園の芝生を踏むことができたのだ。 

 おめでとう T君! 兄ちゃんの分まで、そして俺の息子の分まで、燃焼してくるんだぜ!

 私の息子のほうはといえば、中学2年のときに、T君などとともに、県選抜チームに選ばれ、菅平の東日本ジャンボリーや関東大会に出場したものの、一本目での出場はなく、「高校でラグビーを続ける自信がない」と迷い始め、結局ラグビーへの思いを断ち切るためか、ラグビー部のない高校を自ら選び進学したのだ。 もっぱら、日曜日になるとスクールに顔を出して、後輩たちに貸してやっているが、これはこれで、彼なりのラグビー人生なのだろう。

 さあ、今日はT君親子のために乾杯するとしようか!
 (乾杯はいつものことですけどね。) 

 

 

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県民の日

 今日は「埼玉県民の日」ということで、県内の幼稚園(大人たちはお休みではないので保育所は当然、お休みではない)や小中学校、県立高校などはお休みだったので、いつもの月曜日に比較して、どこに行っても子ども、子ども、子ども・・・・ということで、なにやら落ち着かない。

 東京ディズニーランドなどのテーマパークでも、あちこちの県民の日を意識した取り組みがあり、これはこれで、かなりの経済効果を生んでいるのではないだろうか? 

 ちなみに埼玉県民の日は「県民の日を定める条例」という条例で定められており、その条例の中では、小中学校を休みにするなんてことは一言も書いていない。ただ、

第三条 県は、県民の日を中心として、施設の公開など第一条の趣旨にふさわしい各種の記念行事を行なうものとする。
 
第四条 県は、ひろく県民及び市町村その他の団体に対し、第一条の趣旨にふさわしい行事を行なうよう、その協力を求めるものとする。
 
 とあるのみで、この各種の記念行事や市町村その他の団体に対して求めるふさわしい行事が「休校」措置ということになるらしい。今日、子どもを連れて行楽地に出張った親子連れは、大半が月曜定休の人か学校の先生、教職員ということになるわけだ。鴻巣市でも特に県民の日の行事というのは市の広報紙を読んでもどこにも出てこない、その代わり合併記念事業というのは、「なにもここまで」と思うほど目白押しだ。
 
 朝から花火がドンドン上がっているのが、県民の日と関係あるのかと思っていたら、これは「お十夜」とよばれる勝願寺というお寺の施餓鬼なのだそうだ。「関東三大十夜」という大きなポスターがあちこちに張ってある。
 勝願寺とは浄土宗の関東十八壇林(僧の修行場)の一つで、この十八のお寺の中には芝の増上寺を筆頭に小石川の伝通院などがあるので、かなりの名刹ということだろうか。徳川家康から家光までの三代にわたって庇護を受けたというのも、「勝利を願う」寺というのが武家の頭領として目出たいネーミングだったからだろう。
 
 ひとつ興味深いのは、鴻巣市にはもう一つの勝願寺がある、ということだ。これは私の住んでいるところから程近いところにあるが、十八壇林のほうが浄土宗なのに対して、こちらは真言宗となっているからややこしい。
 
 「昔は県民の日でなくても、お十夜の日は学校は休みになった。それこそ、近隣の町や村から、みんな歩いて鴻巣の勝願寺に集まったもんだよ。稲刈りが終わって、こづかいもらって、夜店で買物するのが楽しみだったよ」
 「そういえば、お十夜の時分になると、よくサーカスがやってきたねえ」
なんて、近所のお爺さんたちが話してくれた。
 
 なんと、鴻巣では県民の日ができる前から、11月14日は学校は休みだったようだ。時代を先取りしてるね! 鴻巣市恐るべし!
 
 

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長男の受験

 本日、長男が入試の第一弾、というか、いよいよ本番を迎えることになった。いわゆるAO(admissions office)入試という、自分らの頃には聞いたこともない入学試験の方式で公募制自己推薦入試ともよばれ「大学側が求める人材を大学の入学指針(アドミッション・ポリシー)に基づいて、高校時代の学習成績や活動等を基に入学志願者と面接を行い、推薦入試と異なり、生徒の高校時代の活動や自己アピールを面接の場で行うことができる選抜方式」なのだそうである。アメリカの大学では学力試験よりも一般的にはこの方式で入学者が決定されているという。まあ、いってみれば、大学と受験生のお見合いみたいなもので、相思相愛の関係であることが認められれば合格できるものらしい。

 もちろん、最初は受験生の熱烈な片思いから始まるわけであるが、長男のように高校入試のときから「入試科目に英語がない高校はないのかな~」と、親子ともにため息をつかなければならないほどの英語嫌いの人間にとっては、志望校合格への最初で最後の頼みの綱みたいな制度だ。なにしろ、英語ができなければ文系だ、理系だ以前の問題なのである。

 夏休み前の三者面談でも、担任の先生から「夏休みは英語だけ勉強してみて、せめて次の模試で平均点とってくれれば、志望校のドコ受けたって大丈夫だと思うんだけどネエ」といわれてしまうくらいの徹底ぶりだからまさにトホホのホである。

 で、息子のAO入試であるが、書類選考による一次試験はパスしたものの、小論文と面接がある。いくらチョー苦手の英語がないとはいっても、一次試験と二次試験と2回も入試検定料を払わされる、というのもなんか釈然としないなあ・・・。多分、書類選考で篩いにかけられるなんてそんなにいないのだろうから。

 自分のときもそうだったのだが、息子には、自分の学力に見合った大学を選ぶ、というのではなく、「この先生のもとで学びたい」という先生を見つけ、大学を決めなさい、というアドバイスをしたため、彼は2年生の後半から今年の春先にかけて、自分の関心のある領域の本を読んで、大学案内や土日を利用して大学に足しげく通って、情報を集めてきたようだ。最近はオープンキャンパスという、大学側が受験生に大学を見てもらう日を設けているが、こういう日は大学のいいところしか見せないので、できれば、普段の日にキャンパスにもぐりこんで実際に受けてみたい授業に参加してみるのがいい、とも言ってみた。

 結果として、彼が志望校として選んだ大学は、「うん、いいんじゃない」、と思う大学もあれば、「え?」という大学もあって千差万別。傍目には、「なぜ、ここが第一志望で、こっちが第三志望なのか?」と不思議がられるようなラインナップになったのだが、大学をリストアップするのにかけた彼の時間と努力を尊重して、なにもいわないことにした。親がそれだけの努力をしていないで、自分の頃の感覚だけでアレコレいってみても始まらない。

 「お子さんが自ら選んで、努力して合格し、入学した大学はすべて一流大学なんです。決して親が引け目を感じることはありません。大切なのは、親が希望するからといって、お子さんが行きたくない大学を受験させてはいけない、ということです。」という担任の先生の言葉もある。一見頼りなさそうに見えるかなり年配の先生なのだが、抑えるべきところはキッチリ抑えている人だ。

 悔しながら、息子の日本史及び世界史全般に及ぶ知識と情報量は、彼の中学時代から親父のそれをはるかに凌駕していた。小論文の下書きなどくず入れに捨ててあるのを覗き見ると、どこぞの大学教授のものだろうか?という位のレベルである。特に最近は洋の東西を問わず、為政者たちの生き方に猛烈に関心があるらしいのだが、一日中歴史の本を読んでも飽きないらしい。以前は一緒にNHKの「そのとき歴史が動いた」を見ていたのだが、最近は「既知の話題ばかりで面白くない」のだとか言って、白けている・・・。

 う、う~ん、お前は確かにスゴイ! だが、息子よ、一言いっておく!

 もっと英語を勉強しなはれ!

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抽選の結果

 今日、全国高校ラグビー選手権大会、いわゆる花園に向けての埼玉県予選の準決勝があった。第一試合で、昨年の全国ベスト4の正智深谷高校と県立深谷高校が対戦、昨年度の県大会決勝の再現となったが、12対12の引き分け、抽選の結果、県立深谷が決勝戦にコマを進めた。といってもゲームを直接見たのではなく、仕事上の会議の席に携帯で連絡が入ったので、ゲームの詳細はよくわからない。

 毎年、何試合かは、この抽選というやつで次の試合に進むチームが決まっていくのがラグビーの特徴で、これは、高校に限らず、大学も社会人も同じシステムだ。野球の延長戦やサッカーのPK戦のような決着方法がない、というより、元来、ルールに定められた時間にすべての力を出し切って闘う、というのがラグビーの精神であり、実際にフルタイムになってノーサイド状態となった時には、立っていられないほど体力を消耗し、集中力も限界に近くなっているはずなのだ。 また、どのチームが一番強いのか?を決めるトーナメント方式は本来、どちらのチームが強いのか?という対抗戦を方式をモットーとするラグビーには馴染まない、とする昔からの指摘もある。

 今日の試合、スクールのかつての教え子が両方のチームにいるので、どちらにも勝って欲しい、という複雑な思いでいたのだが、引き分けときいて正直ホッとした反面、「抽選」という言葉がやけに心に引っかかって、敗れたわけではないのに、決勝に進めなかった正智フィフティーンのことを考えると胸が痛んだ。そうだ。今日のゲームは勝者も敗者もないのだ。引き分けということは、どちらも決勝に進むにふさわしい素晴らしいチームだったということだ。 深谷高校は双方の代表として決勝戦で正智深谷フィフティーンの分まで思う存分闘って、是非、花園行きの切符を手にして欲しいし、花園でも決勝戦まで残って、昨年の正智深谷を上回る成績を上げて欲しいものだ。

では、両チームの健闘を讃えて、

Three cheers for Shochi-Fukaya RFC and Fukaya RFC ,
Hip-hip! hurrah!   Hip-hip! hurrah!   Hip-hip! hurrah!

お疲れ様でした! 

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スリーデーマーチ

 「日本スリーデーマーチ」という3日間歩きまくるイベントが鴻巣市の西方、豚のカシラ肉を焼いているのになぜか焼き鳥のまちとして有名になった(ということは看板に偽りあり、なのに問題視されていない)東松山市で毎年11月の初旬に開かれている。今年で28回目、今年は今日が最終日だった。と、いって参加したわけではない。たまたま、今日、職場でそういう話題になったのだ。

 私が参加したのは、結婚前だから20年も前になる。確か、初めて聞いた時は、なぜ、3日間なのに「スリーデイズ」と複数形にならずに「スリーデー」なんだろう?と不思議だったのだが、東松山で開催される前は、群馬県の高崎あたりでやっていたらしいのだが、その頃は「スリーデイズ・マーチ」だったとか、後できいたことがある。読売新聞の後援から朝日新聞にかわったら「ズ」が取れてしまったらしい。

 私は、毎年、学生時代から結婚するまで、夏休みに主に北アルプスあたりの山を中心にひとりで縦走を楽しんでいたのだが、その年、白馬山荘でたまたま同じウナギの寝床に寝ることになった、福島県白河市から来た黒川さんという、極めて覚えやすい名前の男性と意気投合して、ウイスキーを飲み交わすうちに、「実は、毎年、東松山のスリーデーマーチに行っているのだが、よかったら、今度一緒に歩きませんか?」と声をかけられたのであった。きけば、学校の体育館に寝泊りして、50キロコース、40キロコース、30キロコースなどに分かれて比企丘陵を3日間かけて歩き尽くすというイベントだという。 1日に50キロ×3日間で150キロだ。 歩くことも好きだが、夜な夜な市内の焼き鳥屋さんをハシゴして、やがては全店制覇をするのが夢なのだ豪語している。

 「そりゃ、面白そうだ」ということで、二つ返事でOKしたのだが、うかつにも、お互いの連絡先を教え合わないうちに、そのまま別れて下山してしまったのに気づいたのは、白馬蓮華温泉の露天風呂につかって缶ビール片手にひとり満天の星を眺めているときだった。

 「もしかしたら、会えるかもしれない」という淡い期待(でも、考えてみると男なんだけど・・・)を胸に、11月にスリーデーマーチに参加して、参加者名簿に白河市の黒川何某という名前を探したのだが、見つからず、3日間、体育館や会場内はおろか、3日間でハシゴした焼き鳥屋さん計9軒でも邂逅すること適わず、「ジャズが好きだ」という言葉を頼りに、当時東松山市内にあった「Five Pennies」だったか「5つの銅貨」という日本語名だったか自信ないが、駅近くの商店街の地下にあったジャズ喫茶にも毎晩通ったのだが、ついに再会することはなかった。

 で、本題のスリーデーマーチのことだ。 黒川さんの話では、50キロコースだと、のんびり景色を眺める余裕はないよ、ということだったので、40キロコース(現在のコース設定にはない)というのに参加したのだが、結構な荷物を背負って縦走専門とはいえ、雪渓やらガレ場、鎖場など、アップダウンの激しい山道を薄い酸素の中、一日に10~12キロ歩いてきた人間が、距離は3倍以上とはいえ、平坦な、ほとんど舗装された歩きやすい道路を歩くのだから、大したことないだろう、と高をくくってかかったのが大失敗だった。

 体育館に敷き詰められた貸布団で黒川さんのかわりに隣り合わせになったのは、名古屋から来たという小学校の元校長先生だったが、50キロコースを歩くというこの人から、スリーデーマーチの攻略法を伝授された。 ①短い休憩時間を回数を多くとる(ダラダラと長く休まないこと) ②水分補給は怠らず、ただし、ものを食べるのは控える。よって昼食用の弁当も不要である。 ③隣の人と余計なおしゃべりはしない。おしゃべりは余計なエネルギーを使う。 ④帰着後は、十分にマッサージをして、筋肉をほぐす。 ⑤早め(午後8時まで)に就寝して翌日のウォーキングに備える。 というものだったが、なにしろ、こちらは、どちらかといえば、参加目的がかなりいい加減であって、可能であれば、うら若き女子大生グループなどと前になったり後になったりの楽しい会話、昼食時には冷たい缶ビールが欠かせないだろう? 特に、辛子味噌だれ焼き鳥屋のハシゴ、のノリで来ているものだから、もういけません。今、思えば、この校長先生のいうことをよく肝に銘じておけばヨカッタ。

 1日目は沿道の景色を楽しみながら、余裕のスタート&ゴール。チェックポイントごとに設けられている地元自治会のテントで、豚汁をもらったり、ふかしたてのお饅頭を頂戴したりで、「ええ、大会やないか」

 2日目、多少の前日の疲れも沿道の地域住民のみなさんの「頑張って~」という声に、手を振りながら、ひきつった笑顔を返すことができていたのだがゴール後の感想「結構、シンドイかも・・・」

 3日目には正直、口をきくのもシンドイ状態で、疲労困憊の極みに達していた。足は一歩踏み出すごとに鈍痛が走り、森林公園に各コースが集結後、市内に戻るパレードの時には足を引きずっていた。「おっ、俺は生きて生還できるのだろうか・・・?」 家族の顔がチラチラ浮かぶ。

 それでも、なんとか120キロを歩き終え、打ちあがる花火のもと沿道の市民の大声援の中、ゴールに到着して「完歩賞」というのを貰うことができた途端に、気持ちが異様に高揚してしまった。 多分、24時間テレビ「愛は地球を救う」のチャリティーマラソンのランナーのゴールみたいなもんだね。 「ええい、歩きついでに、このまま家まで歩いちゃおうかな」と、なんとも無謀なことを考えてしまったものだ。 まあ、約束の時間にはまだ早いものの、当時つき合っていた彼女が、東松山市街地のお祭りの交通規制を避けて、途中にある「いつもの喫茶店」の駐車場まで車で迎えに来てくれる手筈になっていた。 うまくいけば途中で拾ってもらえるだろう。 だが、しかし、20年前に携帯電話が普及していれば、その後の惨劇は起こりえなかったであろう。

 大抵の青春ドラマの場合、そうであるように、彼女の車は私の目の前に終ぞ現れなかったのである。店の名前を聞き違えたのか、時間を勘違いしたのか? 彼女は「待っていたのに~」と言うのだったが、あとで単純に「いつもの喫茶店」が、私と彼女で異なる認識(当時よく使っていた喫茶店が道路を挟んでほぼ同じ場所に左右に別々に存在していた)というオチ(ということはもしかして、俺以外の彼氏とはこっちの店がいつもの店なのかいな)がついて、とてもツライ笑い話で終わったのだが・・・

 とにもかくにも、賽は投げられたのである。ルビコン川を渡りだしては、もう元には戻れないのだ、痛い足を引きずりながら一路我が家を目指す目はうつろ。 途中、車で通りかかった行楽帰りの職場の先輩から声をかけられ、事情を話すと、「いいねえ、若いって素晴らしい!」といたく感激してくれて、「車に載せてくれるのかなあ~」という甘い期待を見事裏切って、「まあ頑張ってくれ!」と缶ジュースを2本くれたっけ。疲れ果てた体に、肩に食い込むリュックザック、2本の缶ジュースが鉛の重しのように応えたなあ。そういえば、当時はペットボトルなんてなかったし・・・。 

 なんとか無事に家までたどりついたものの、3日間合計120キロにプラス、自宅までの徒歩20数キロが加算されたために、翌日の朝、出勤するのに革靴に足が入らなくなるほど足の甲が腫れ上がってしまい、その後の3日間、情けないことに背広姿にサンダル履きで出勤する羽目になってしまった。 おまけに荷物もないのに、2階へ行くのにもエレベーターに乗らなくてはならない。登りヨイヨイ、下りは怖い!というくらいに両膝が大笑いして、いうことをきいてくれなかった。 

 日本スリーデーマーチ、今でも「完歩賞」と記念のメダルを見るたびに、結局、当時の彼女の底抜け脳天気な「ごっめ~ん!」のお愛想笑いを筆頭に、けっこうほろ苦い思い出の数々が脳裏に蘇ってくるのであった。

 「スリーデーマーチか、ツーデーマーチになったら、また参加しよっかな・・・・」

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