一粒で4度美味しかった箱根駅伝~でも味わいたくない

 結局、順天堂大学が一度もトップの座を明け渡すことなく、大手町のゴールまで帰ってきた。往路・復路・総合の三点セットで完全優勝である。お見事!
 昨年末までの大方の予想では「東海大学悲願の初優勝か?」が固いところであったが、各区のエントリー選手が発表された途端に、「順天堂大学の優勝はゆるがない」みたいな論調になっていたのを見てもわかるとおり、あきらかに東海大学の作戦ミスではなかったか?

 佐藤、伊達の両エースを1区、2区で使い、その波に乗って、できるだけ差を広げて、そのまま先行逃げ切りを図ったのだろうが、結局、5区山登りに今井というスーパーエースをもつ順天堂の思い通りの展開になり、大会としては、なんとも盛り上がりに欠けるものになってしまった責任は東海大学さんにあるなあ。
 やっぱり、昨年のように終盤にめまぐるしくトップが入れ替わり、最後まで判らないレース展開のほうが見る方としては面白かった。

 それにしても、昨日、箱根駅伝は「一粒で三度美味しい」などと言ったばかりで恐縮なことだが、まだ、美味しい味を発見した。母校が演じてくれたシード権争いである。昨年に引き続き、よもや、とは思ったが、最後の最後までヒヤヒヤしどおしで、なんとか、昨年度と同じ8位を死守して、シード権を確保。79回連続82回目の出場を決めてくれた。これで、今年1年、頑張って生き抜いて、来年こそは歓喜の正月を迎えよう、という気分になるなあ・・・。 うんうん、ヨカッタ、ヨカッタ! 

 優勝争いから脱落しても、シード権争いという、一大関心事が控えているところが、箱根駅伝の魅力でもある。然しながら、結果としてシード権を確保できたから、あまり味わいたくはない美味しい味を噛みしめることができるのであり、もちろん、できることならば、ここに参加して欲しくはない。

 まあ、昨日の4区小林の大ブレーキを、5区山本が盛り返し、今日は7区 山本(1年)8区 森(2年)、9区 徳地(2年)がいずれも区間一桁台の順位でつないで、最後を4年生の10区 宮本が区間4位でフィニッシュしたのだから、これも伝統の底力ということなのだろうか。 ブレーキの人間の責任を挽回しようと、一致団結して、見えない力が働くこと、これが駅伝の醍醐味だな。 

 来年こそは、上野を中心に若い力を結集し、頼むぜ、12年ぶり15度目の総合優勝! ということで、4年生諸君はお疲れサマでした。

その他の雑感

 今年気づいたのだけれども、日本テレビの箱根駅伝のCMのスポンサーに、大会関係車両を提供しているホンダがあるのはわかるのだけれども、トヨタ、ニッサン、三菱、スズキなどほとんどの自動車メーカーがCMを出していたような気がするのだけれども、日本テレビもお金を貰える所はどこでも、というのは節操がないなあ。 ライバル会社が同じ番組のスポンサーに名を連ねるなんて、アメリカでは考えられないことだな。 
 まあ、大会車両で、選手のバックにいつも映っているのはホンダのFCX、Edix、CIVICHy-Bridだったし、選手を先導している白バイもすべてHONDA製、ということで、見事な挟み撃ちで、ホンダの一株主としては、非常に嬉しいことですが、トヨタさんをはじめ、他メーカーさんも自分とこのCMを流している番組で、いつも映っているのが、HONDAの車とバイクっていうのも、まあ太っ腹ですね~。さすがに世界のトヨタさんです。

 可能であるなら、来年は大手町のスタートのピストルや芦ノ湖の復路スタートの合図をする旗振りを、ASIMOがやって、上空からはホンダジェットで空撮をしてくれると嬉しいのですが・・・

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おめでとう レッズ!

 浦和レッドダイヤモンズがJ1で初優勝を飾った。 先日は母校中大ラグビー部が久しぶりに入替戦なしで一部残留を決めてくれたし、今週はいいことずくめである!
 今頃は旧浦和市内は大阪のように繁華街の中心部を道頓堀のような河川が流れていないため、ダイビングみたいなことはできないだろうが、おそらく大変なことになっていることだろう。 
 今となっては「サッカーのまち浦和」「サッカー御三家(静岡・広島・埼玉)」「埼玉を制す者は全国を制す」などと言われていた時代が懐かしい。高校サッカーで最後に埼玉代表(武南高校)が優勝したのは1981年、自分が大学4年、就職が決まってのんびりとコタツで正月を過ごしていたときのことだ。あれから25年か・・・。

 自分とサッカーの出会いは、実はレッズの前身である三菱重工サッカー部であった。小学3年生の頃、今、川口市にいる叔母が丸の内の三菱重工でOLをしていて、同じ課にサッカー部員(確か後に日本代表になった落合選手や大仁(だいに)選手だった、と記憶している)がいた関係で、よく国立競技場(霞ヶ丘や西が丘)の日本リーグの応援に連れて行ってもらったのだ。 もっとも、その頃は、サッカーよりも、都内のレストランで食べさせてもらえる、ナポリタンやグラタンのほうが楽しみであったが、結構、赤と白の三菱マークの入った小旗を振って熱く応援していたのではないか、と思う。 

 日本リーグでは東洋工業(現サンフレッチェ)、ヤンマーディーゼル(現セレッソ)が熱い戦いを繰り広げていた頃であった。 三菱重工は、前述の二人の他に杉山、森、横山など、日本代表クラスを揃えており、現在同様、人気はものすごくあったものの、決して強いチームとはいえなかった。東洋工業はいつも優勝していて、なにか別格という感じで、むしろ、三菱VSヤンマーの2番手争いのほうが、杉山VS釜本という日本を代表する両エース同士の戦いも興味深く、お客もたくさん入って早慶戦のような雰囲気であった。
 下位は決まって日本鋼管、八幡製鉄、古河電工(現ジェフ)、名相銀(名古屋相互銀行)なんてチームに決まっていたから、まあ、優勝はできなくても上位安泰、2部に降格の心配はまったくない、という、いかにも、全体的にはのんびりしたムードだった。
 思えば、これが日本リーグ、というよりも日本のサッカー全体の実力も魅力も奪っていった一因だったと思う。 どんどん、外国との差が広がっていったのではないだろうか。 

 とはいえ、当時、東京12チャンネルで日曜日の朝やっていた「三菱ダイヤモンドサッカー」(金子勝彦アナの名調子と岡野俊一郎さんの理論的な解説はよかった)で、イングランドやドイツのプロサッカーの模様をかかさず見ていたものの、将来の王・長島を夢見ていた鼻垂れ野球小僧にとって、日本と違って、どうして外国では、たかが、サッカーごときにスタンド一杯に観客が詰め掛けているのか、そしてあんなにゴールの度に大騒ぎするのか、理解できなかった。(さすが、ナポリタンとグラタン目当ての似非サッカー小僧だけあるでしょう・・・)

 ともかく、当初はJリーグの加盟にも、最後までフランチャイズが決まらなかったり、リーグが始まれば始まったで、お荷物とまで呼ばれ、「浦和は下位の常連か」なる替え歌まで巷で流行するほどのテイタラクの、あのレッズが、ようやっと、というか悲願のVを成し遂げたのである。 なにか、所沢にやってきた当時の万年最下位であったライオンズの印象と妙にかぶるものがある。 もちろん、サポーターは今も昔も変わらない、当時から日本一の熱いサポーターであったが。

 個人的には、福田が現役のときに優勝できていたらなあ、との思いは強いのだが、ブッフバルト監督での初優勝と言うの含めて、三菱重工サッカー部以来、40年近いファンとして、なにか感慨深いものがある。 惜しむらくは、かつてサッカー王国と言われた埼玉の浦和に本拠を置くレッズに、埼玉出身の選手が少数派だということだろう。むしろ、静岡出身の選手のほうが多いのは残念である。この人気があるうちに、せめて埼玉(それも浦和)出身のプレイヤーが半分くらいを占めるようにならないといけないんじゃないだろうか。

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走れ、走れ

 日本代表監督に決まったようなオシム。「走れ、走れ」でJEF千葉を率いて強豪チームに仕立て上げた手腕を買われたらしい。まあ、サッカーの世界では、結果が出なければ監督の首の挿げ替えなど日常茶飯事であるから、驚くことはないのかもしれないが、結構、この「走れ、走れ」は昔ながらの日本のサッカーの練習のような気がする。

 昔々、ロッテオリオンズが弱小球団だった頃、金田正一が監督になって、キャンプで走りまくって優勝しちゃったことがある。ついこの間も、大学ラグビーで関東学院が早稲田を20vs3と圧倒して、久しぶりに勝利したが、これも「走るだけ」の練習を週3日、ひたすら繰り返した結果だという。 「世界一になりたかったら別の監督を探してくれ」とはオシムらしいものの言いようだが、「走れ、走れ」だけでは確かに世界の頂点には立てないだろう。

 今日、昔のスクラップを整理していたら、結構面白いものが出てきた。先の日韓ワールドカップ後に監督になったばかりのジーコのコメントだ。
 「ブラジルには勝っているチームをいじってはならない、という鉄則がある。日本は先にこれ(選手交代)をやってしまった。ワールドカップで勝てるはずがない。」とトルシエの戦術を批判した。(でも、今回の大会でもジーコ自身がこれをやってしまって、結局、勝てなかったんじゃない?)
 でも、そのあと、ジーコはこうも言っている。
 「Jリーグができて、まだ10年だ。ブラジルがワールドカップで優勝したのはプロリーグができて30年も経ってからだ。あせることはない」と。

 4年間走り続けて、次回のワールドカップがどうなるのか、楽しみだな。

 それにしても、「ワールドカップって、まだやってるの?」とか「優勝何処だったの?」という人が結構、私の身の回りには多いのです。
 「日本人は継続性が乏しい。だから流行に敏感なのだ。サッカーのワールドカップも日本人の多くにとっては単なるイベントに過ぎない。日本が負ければ、大多数の人の関心はなくなってしまうだろう。だから、ワールドカップのときの異様な盛り上がりに比較してJリーグは人気が低迷している。Jリーグが毎年、観客動員数を増やし続けるような盛り上がりを見せない限り、日本がワールドカップのベスト8以上に勝ちあがることがないだろう」誰のコメントか失念したが、同じスクラップに走り書きしてあった。

 え? 中田が引退だって? 燃え尽きたのか~。 それとも、走りたくなかったのかなあ・・・。

 

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酉の五輪

 暖かくなったり、寒くなったり、春近しといった陽気になってきた。明日は雪らしい。トリノでの冬季オリンピックは、まだ日本勢はメダルなし。なにやら得体の知れない国の名前がメダル獲得ランキングに並んでいるのを見ると、なんとなく悔しいものだ。日本中にトワ・エ・モアの「虹と雪のバラード」が流れ、笠谷たちの日の丸ジャンプ隊の金・銀・銅メダルの表彰台独占に沸いた札幌オリンピックは時差がなかったので、当時の中学校では、毎日、オリンピック中継を教室で見て、応援したものだ。

 最近は相撲でも日本人力士の優勝は稀有な状況となっているしな。別に法律で決まっているわけではないのに相撲は国技だ、なんて言って、土俵に女性は上げないのに、外国人は上げちゃうんだね。アメリカの国技と言われているアメリカンフットボールの世界選手権では、過去に開催された2回とも日本が優勝してしまったり(ただし、アメリカは不参加だった)と非常に日本のスポーツ界もグローバル(?)になってきた割には保守的な側面もあって、(でも、柔道着が青くなったりするのはどうも未だになじめないものだ)、そのうち、ニューハーフの力士とか、性転換したり、性同一性症候群の力士とかでてきたらどうするんだろうね。

 話は変わるけど、カーリングという競技、果たしてオリンピックに相応しいスポーツといえるのかどうかは置いておいて、結構夢中になってTVにかじりついてしまった。なんといっても、他の競技と違って、選手がヘルメットをかぶったり、ゴーグルをつけたりしないて、素顔で競技しているのが面白いと思った。試合中の表情がとてもいいのだ。その選手の表情に思わず引き込まれてしまうことがかなりあって、感情移入の激しい自分としては、本当に一緒になってプレーしているような感じだった。だからといって、試合終了後に、廊下に行って、漬物石を滑らせるなんてことは考えもしなかったけれど・・・。

 なんといっても、他の競技のように、身体的なハンディキャップであるとかはあまり問題にされないし、番狂わせも起こりやすいので、けっこうこれからブームになるのではないかな。

 

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箱根駅弁? Part2

 いやはや、本当に箱根駅弁はあったらしい。ビックリしたなあ。もう。

★箱根の駅伝弁当・★箱根味めぐり駅伝弁当

 どなたか味わった方がいらっしゃいましたら、是非、感想を聞かせて下さい。 

 駅伝の方は、駒大の5連覇成らず、あっと驚く亜細亜大学の初優勝となりました。いやはやエースや大砲と呼ばれる選手不在でも全員駅伝での勝利ということでしょうか。お見事でした。順天堂大学が往路優勝(7回目)。法政大学が復路優勝(初)。総合優勝が亜細亜大学(初)と3校が優勝するなんて。区間賞もいろいろな大学の選手がとって、まさに群雄割拠・下克上の戦国駅伝です。 箱根駅伝のデータベースを見ると、母校中大の記録が燦然と輝いていますが、往路優勝は5年間。復路優勝・総合優勝は10年間遠ざかっています。80回の出場で14回優勝しているということは、5.7年に1回優勝してるってことですから、そろそろ来年こそは、馬鹿騒ぎして気分のよいお正月を迎えたいものです。

箱根駅伝での中央大学の記録

◎出場回数 80回(第1位)  2位 日大(77回)  3位 早大(75回)
◎連続出場 77回(第1位)  2位 日体大(58回)  3位 順大(49回)
◎総合優勝 14回(第1位)  2位 日大・早大(12回) 4位 順大(10回)
◎往路優勝 15回(第1位)  2位 日大(13回)  3位 早大(12回)
◎復路優勝 14回(第2位)  1位 早大(15回)  3位 日大(12回)
◎連続優勝  6回(第1位)  2位 日体大(5回)  3位 日大・順大・駒大(4回)
◎往路・復路完全優勝 9回(第1位) 1位 日大(9回) 3位 早大・日体大(5回)
◎全区間1位完全優勝 6回(第1位) 2位 日大(2回) 3位 日体大・明大・早大(1回)
◎優勝勝率 17.5%(第2位)  1位 順大(20.4%) 3位 早大(16.0%) 

 ちなみに、第40回大会(昭和39年)の往路・復路完全優勝のとき(中大6連覇の最後の年)は、なんと、5区と10区、往路・復路のアンカー区間になって逆転して初めてトップに立ち、そのまま逃げ切って優勝、という極めて効率的・経済的・省エネ優勝だったそうです。     

 箱根駅伝を走ったことがあるという立教大学OBに2年ほど前、ある宴席でヒョンなことからお話をきく機会があった。
「中大さんの立派なのは優勝回数よりも連続出場回数だな。70年以上前の先輩から後輩に脈々と受け継がれてきた赤い襷の重さと長さ。これは凄いことだよ。そしてシード権争いではなく、毎年、優勝争いに絡んでくるんだから大したものだ。日大さんが途切れてしまって、もう、この記録だけは後にも先にも中大さんしか作れないだろうな。是非とも80回、100回と連続出場して欲しいな。俺はもうその頃は生きてないだろうけど、100回連続出場したら、連盟表彰でもして、永久シード権を与えてもいいくらい、わが国のスポーツ界の宝物みたいな記録だよ、ホント。」

 それにしても、めまぐるしくトップが入れ替わる展開にハラハラドキドキの実にスリリングな2日間でした。母校が今日の復路は14位と沈んでしまい、シード権を落とすのではないか?とヒヤヒヤでしたが、なんとか、78回連続81回目の出場が決まりました。
  実は今朝、いやな予感がしたのです。 スタートと襷リレーの度に1本づつ開けていくはずのエビスビールが5本しかない? あれ? 昨日の往路終了時には復路優勝と総合優勝時の乾杯用のも加えて7本有った筈なのに~。 
 と、思ったら、そういえば、昨日の夕方、仲人の家に年始まわりに出かけて、熱燗ばっかり飲まされて、家に帰ってきてから、冷たいものが飲みたくなって1本、風呂あがりに1本飲んでしまったらしいのです。ここのところを覚えていないというのが一生の不覚です。
 こうして、6日間の運動不足+肥育期間を経て、襷を身体に回すことが不可能なくらいなスーパー肥満腹に膨れ上がり、明日は仕事始めのスタートラインに立つのです。

位置について 用意 グ エップ (;O;)~~~!

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箱根駅弁?

 在学中はそれほどでもなかったのだけれども、日本テレビで中継が始まったのが、卒業後だったということもあるのかしらん。正月2日と3日はいつも、いくら前の晩にヘベレケに酔っぱらっていても、きっちりと箱根駅伝スタート午前8時キッカリに一本目のエビスビールが開けられ、気の長い話なのだけれども、各中継点ごと母校が襷をつなぐごとに次々とビンの王冠が抜かれていくのが、このところの我が家(正確には私の、であるが)の正月風景である。つまり、この2日間できっかり10本のエビスビールが空になっていくのである。11本目は総合優勝したときに、あるいは、往路優勝と復路優勝もセットになれば計13本のエビスビールが空になる計算なのだが、残念ながらその記録は達成されていない。

日テレで中継が始まった頃考えた駄洒落がある。 
「箱根駅で売っている駅弁を『箱根駅弁』と呼ぶらしいね・・・」
なあんてことを新年会の席で交わして、お愛想笑いを買っていたのは20年前のこと・・・

 なにしろ、在学中は箱根駅伝の順位よりも、司法試験の合格者数が早稲田にも抜かれて3位になっちゃったね~(私の入学前は東大よりも多かったなあ)。公認会計士試験の合格者数も慶応に抜かれて3位になっちゃったね~(入学前は一橋大よりも多かったなあ)、みたいな話題のほうが盛り上がっていた感じがあったので、陸上競技部の皆さん、御免なさいでした。

 元総理大臣だった海部俊樹さんは早稲田大卒ということになっているけれども、中央大OBでもあった。 文部大臣就任当時に「中大在学中、陸上部が強かったのに、授業優先ということで応援はまかりならん、みたいな校風に愛想をつかして早稲田に移った。早稲田は早慶戦のときは授業は休校になったから・・・」という感想を漏らしておられましたが、まあ、その硬派なところが中大カラー、そこに惹かれて中大に入った部分もかなりあるからねえ。

 で、今日の駅伝ですが往路3位。私が年番で神社に行くまでは1位だったのに。まあ、仕方ないでしょうね。1位と1分19秒差は確か、10年前の優勝のときよりも少ないですから明日はどうなりますかね。 あの時は、往路ゴール時点で中大は山梨学院、神奈川大学がキケンして前にいるのが早稲田だけだったので、総合優勝を確信したのですが、今年はどうなるでしょうかねえ。 私の予想では、往路は東海大学・日本大学に次いで3位というものでしたが、順位はともかく、ちょっと予想外の展開になってしまいました。まあ、この両校が前にいないということは十分に優勝の可能性は残されている、と思っていますけど・・・

 ああ、明日も熱く長い一日になりそうですウ~。 明日は6本目、7本目のエビスを飲んでみたい。ワクワク!

 それにしても、駅伝中継が終わると、あちこちでジョギングをしている人をたくさん見る(笑)んだけど、その気持ち、わかりますねえ。 映画「燃えよ、ドラゴン」を観終えた人たちが映画館から出てきた瞬間、目配りや立ち振る舞いがみんなブルース・リーみたいになるのと一緒ですよね。 ア、チョー!!!!

 こうして、将来の箱根ランナーが育っていくのですね。

 そういえば、箱根駅伝の創設に、鴻巣が一枚かんでいるらしい、という話題を田間宮生涯学習センターの副館長さんから聞いたことがあります。詳しい話は、以下のHPを参照してください。

http://www.ntv.co.jp/hakone82/11_s_01.html

 なお、当初、駅伝の折り返し点を箱根にするか、日光にするか、あるいは水戸にするかでもめたときに、箱根を主張したのが早大OB、神奈川県選出の河野一郎元衆議院議長、日光を主張したのが明大OB、埼玉県選出の山口六郎四元自民党副幹事長、いずれも駅伝ランナーとして走って故郷に錦を飾りたい、という思いだったそうですが、彼らの息子である河野洋平と山口敏夫が一緒に自民党を飛び出して、新自由クラブを結成した、なんていうエピソードも、今となっては、とっても面白いですねえ。

 ちなみに、山口六郎四の銅像が東松山の箭弓稲荷神社の牡丹園のところに立っているそうですが、箱根駅伝のエピソードについては書かれていない、ということも副館長さんが言っていました。以前、広報担当だったときに郷土史についていろいろ調べたんだそうです。

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尻のでかい奴は野球部へ but メガネの奴は卓球部へ

 僕が昔、野球少年だったことは、前に記した。もっとも、僕らの小学生の頃は、それ以外考えられなかったのだ。なにせ、「巨人、大鵬、玉子焼き」が日本全国子どもの大好きなものの代名詞だった時代だ。
 もちろん、関西や名古屋では、巨人のところが阪神や中日になっていたのだろうが、子どものやるスポーツといえば野球だったのだ。
 当然、僕らも放課後になると近所の空き地に集まっては野球に興じたものだし、学校帰りに隣の中学の野球部の練習を見ては「いつかは僕も」と憧れたものだ。僕にとって、中学生になるということは、野球部に入ることとイコールだった。
 当時は市内の小学校対抗ソフトボール大会というのが毎年春に行われていた。5、6年生から選手が選抜されて学校代表として毎日放課後練習をするのだが、運良く僕も5年生でメンバーに(補欠だったが・・・)選ばれた。
 同級生の多くが下校していくのを尻目に、多くの6年生たちにまじって練習に明け暮れるのは、ささやかながら自尊心を満足させてくれた。
 僕は大抵センターかライトを守っていたのだが、あるとき、後ろから声をかけてくる人がいる。
「おまえ、6年生か?」
 振り返ると、隣接する中学の野球部の顧問の先生だった。小柄で真っ黒に日焼けした顔にギラギラした目をしていた。
この先生は、高校時代にキャッチャーとして甲子園に出場したことがあるというので、かなり有名な存在だった。
「いえ、5年1組のMです。」
「やあ、いいカバーリングしてるな。打者ごとに的確に守備位置もかえているし、いいセンスだな。」
先生は、かしこまっている僕を上から下までジロジロと見ていたが、いきなり、近寄ってきて、僕の尻を「パン!」と叩いたのだった。
「特に、この尻が気に入った。これくらいデカイ尻で上背があって、足が短くて重心の低いやつが欲しかったんだ。おい、お前、中学になったら野球部に入れ」
「はい、そのつもりですけど」
ちょっとひっかかった言葉があったが、僕はドキドキしながらこたえた。
「お前をエースピッチャーとして鍛えてみたい。頼むぞ!」
先生は、そういうと自転車にまたがって中学のほうに帰っていった。
僕は確かに体型的に、「尻がデカイ」というのが定説になっていた。というより上半身に比べて異様に下半身が発達していたようだ。
腕や胸はむしろ、やせ気味だったのに、尻から太腿にかけては肥満気味といっても結構ご自慢の筋肉質だったのだ。
さすがに、小学1年生から往復7キロの道のりをランドセルを背負って登下校してきた積み重ねである。
僕は、恥ずかしながら、鉄棒の逆上がりが苦手だったのだが、それも、皆に言わせると「お前は、ケツがデカイから重くて持ち上がらんのだろう」ということになっていた。
裏返せば、重い下半身を持ち上げられるだけの上腕の筋肉がついてない、ということなのだが、それでエースになれるのだろうか?
とりあえず「エースピッチャー」の一言に僕は有頂天に舞い上がってしまっていた。その後、どんな練習をやったか上の空だった。
下校時には「巨人の星」の主題歌が頭の中を駆け巡り、家にある自転車の古チューブで「大リーグボール養成ギブス」ができるかしらん?などと妄想にかられた。
結局、5年生のときは正選手になることはできなかったが、チームの監督だったT先生にある日、呼び出されて、
「中学のK先生から、『Mを何故正選手にしないんだ?』といわれたんだが、私は野球の経験がないので、よくわからない、と申し上げた。
君にはまだ来年があるから、勘弁してくれ」とまでいわれたので、ますます愚かな誇大妄想がアドバルーンのように膨らんだのだった。
心はすでに中学を通り越して、僕にとっての青雲高校はどこなのだ? 巨人は果たしてドラフト何位で僕を指名してくれるのだろう?等々
もちろん、なにごともプラス思考に働いているときの悪い癖で、地元の少年野球チームでは6年生を差し置いてキャプテンに名乗りを上げ、
背番号も13番(王の1番と長島の3番を併せ持つ)じゃなきゃいやだ。と、自分勝手なわがまま三昧をやったものだ。
でも、もちろん、しっかりと、巨人の星をつかむためのトレーニングは続けていた。
電柱の陰から見守る明子姉さんの姿はなかったが毎日兎跳びをやったり、素振りをしたり、屋敷林のケヤキの木にホームベース大の的をぶら下げて、ピッチング練習などである。
K先生とくれば、顔をあわせる度に「待ってるぞ!」といいながらポンと尻を叩いていく。
今考えれば、あの先生、ホモだったんかいな?みたいな感じだが、僕は尻を叩かれるたびに一歩一歩エースのマウンドが近づいてくるのを感じていた。
だがしかし、世の中はそう甘くはなかった。
夕方遅くまで、ただでさえ暗い屋敷林の中で的当てピッチングをしたせいか、もともとあまり良くはなかった視力が日増しに落ちていく。
ついに6年生になる頃には、メガネが手放せなくなってしまったのだった。
つまり星飛雄馬からいきなり左門豊作になってしまったとですタイ。
当時、私の住んでいたごたる田舎では、小学生でメガネばかけとっとは珍しかったですタイ。
視力検査や授業時間には、「おい、あれが見えんとだってさ」ていうヒソヒソ声があちこちで聞こえ、メガネばして廊下ば歩けば、そうよが脇によって僕が通り過ぎるのば見守る。
なにやら異邦人になった気分であったが、こと野球やソフトボールに関して言えば、空振りが減って打率が上昇ていう好結果ばもたらしたのであった。
星飛雄馬の針の穴ばとおすコントロールとまではいかんが、狙ったところへの配球も格段に精度があがったとタイ。
いやあ、熊本弁は難しかあ~、ばってん、カレーにタイ米はあうタイね~。
ますます、巨人の星は近づいたか、に思えたのであったが、ばってん・・・

メガネをかけた僕をみたK先生は、いきなり
「目の悪い奴は野球部にはいらん! 卓球部にでも行くことだな」
とつれない一言を残して、以後、僕の尻を叩くことはなかったのであった。
確かに、メガネをかけた野球選手なんて珍しかった。でも、でもさ、
「巨人にも国松とかいたのになあ、打席では柴田だってメガネをかけていたのに・・・。」
僕は、すっかり巨人の星の夢から奈落の底に落とされ、途方にくれたのであった。
そして、K先生の呪縛の一言に操られるかのように、友人・先輩たちの誘いを断って、中学では野球部ではなく、卓球部に入部してしまうのであった。
思えば、この一言が僕の巨人の星物語のエピローグであり、暗い青春時代のプロローグであったのだ。
せめて、あの頃、「稲中卓球部」が流行り、「卓球温泉」「ピンポン」が上映されていたら、愛ちゃんが活躍していてくれたら、あんなに暗い青春時代は送らなくても良かったかも知れないのだ。(事実、僕の中学の卓球部の練習場は、照明が暗くて、ますます視力が落ちていったのだ。)
でも、まあ、そうはいっても、女子卓球部には可愛い子が結構いて、それなりに楽しかったけどね~。

 中学2年の夏、プールの時間だったが、同級生でもある野球部のピッチャーだったNが僕を見て、いみじくも言ったものだ。
「この前のプールのとき、K先生が、Mのほうを見てて、『やっぱり、お前より、あいつが欲しかったな』って言ってたけど、今からでも野球部に来ないか?」
「てやんでえ、誰があんなホモ野郎のところにいくもんかよ~! 俺の青春を返してくれ~、って言っとけ!」
それをきいて、Nは、まじまじと僕の顔を見て言ったのだ。

「キッ、君たちはそういう関係だったのか?」

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スリーデーマーチ

 「日本スリーデーマーチ」という3日間歩きまくるイベントが鴻巣市の西方、豚のカシラ肉を焼いているのになぜか焼き鳥のまちとして有名になった(ということは看板に偽りあり、なのに問題視されていない)東松山市で毎年11月の初旬に開かれている。今年で28回目、今年は今日が最終日だった。と、いって参加したわけではない。たまたま、今日、職場でそういう話題になったのだ。

 私が参加したのは、結婚前だから20年も前になる。確か、初めて聞いた時は、なぜ、3日間なのに「スリーデイズ」と複数形にならずに「スリーデー」なんだろう?と不思議だったのだが、東松山で開催される前は、群馬県の高崎あたりでやっていたらしいのだが、その頃は「スリーデイズ・マーチ」だったとか、後できいたことがある。読売新聞の後援から朝日新聞にかわったら「ズ」が取れてしまったらしい。

 私は、毎年、学生時代から結婚するまで、夏休みに主に北アルプスあたりの山を中心にひとりで縦走を楽しんでいたのだが、その年、白馬山荘でたまたま同じウナギの寝床に寝ることになった、福島県白河市から来た黒川さんという、極めて覚えやすい名前の男性と意気投合して、ウイスキーを飲み交わすうちに、「実は、毎年、東松山のスリーデーマーチに行っているのだが、よかったら、今度一緒に歩きませんか?」と声をかけられたのであった。きけば、学校の体育館に寝泊りして、50キロコース、40キロコース、30キロコースなどに分かれて比企丘陵を3日間かけて歩き尽くすというイベントだという。 1日に50キロ×3日間で150キロだ。 歩くことも好きだが、夜な夜な市内の焼き鳥屋さんをハシゴして、やがては全店制覇をするのが夢なのだ豪語している。

 「そりゃ、面白そうだ」ということで、二つ返事でOKしたのだが、うかつにも、お互いの連絡先を教え合わないうちに、そのまま別れて下山してしまったのに気づいたのは、白馬蓮華温泉の露天風呂につかって缶ビール片手にひとり満天の星を眺めているときだった。

 「もしかしたら、会えるかもしれない」という淡い期待(でも、考えてみると男なんだけど・・・)を胸に、11月にスリーデーマーチに参加して、参加者名簿に白河市の黒川何某という名前を探したのだが、見つからず、3日間、体育館や会場内はおろか、3日間でハシゴした焼き鳥屋さん計9軒でも邂逅すること適わず、「ジャズが好きだ」という言葉を頼りに、当時東松山市内にあった「Five Pennies」だったか「5つの銅貨」という日本語名だったか自信ないが、駅近くの商店街の地下にあったジャズ喫茶にも毎晩通ったのだが、ついに再会することはなかった。

 で、本題のスリーデーマーチのことだ。 黒川さんの話では、50キロコースだと、のんびり景色を眺める余裕はないよ、ということだったので、40キロコース(現在のコース設定にはない)というのに参加したのだが、結構な荷物を背負って縦走専門とはいえ、雪渓やらガレ場、鎖場など、アップダウンの激しい山道を薄い酸素の中、一日に10~12キロ歩いてきた人間が、距離は3倍以上とはいえ、平坦な、ほとんど舗装された歩きやすい道路を歩くのだから、大したことないだろう、と高をくくってかかったのが大失敗だった。

 体育館に敷き詰められた貸布団で黒川さんのかわりに隣り合わせになったのは、名古屋から来たという小学校の元校長先生だったが、50キロコースを歩くというこの人から、スリーデーマーチの攻略法を伝授された。 ①短い休憩時間を回数を多くとる(ダラダラと長く休まないこと) ②水分補給は怠らず、ただし、ものを食べるのは控える。よって昼食用の弁当も不要である。 ③隣の人と余計なおしゃべりはしない。おしゃべりは余計なエネルギーを使う。 ④帰着後は、十分にマッサージをして、筋肉をほぐす。 ⑤早め(午後8時まで)に就寝して翌日のウォーキングに備える。 というものだったが、なにしろ、こちらは、どちらかといえば、参加目的がかなりいい加減であって、可能であれば、うら若き女子大生グループなどと前になったり後になったりの楽しい会話、昼食時には冷たい缶ビールが欠かせないだろう? 特に、辛子味噌だれ焼き鳥屋のハシゴ、のノリで来ているものだから、もういけません。今、思えば、この校長先生のいうことをよく肝に銘じておけばヨカッタ。

 1日目は沿道の景色を楽しみながら、余裕のスタート&ゴール。チェックポイントごとに設けられている地元自治会のテントで、豚汁をもらったり、ふかしたてのお饅頭を頂戴したりで、「ええ、大会やないか」

 2日目、多少の前日の疲れも沿道の地域住民のみなさんの「頑張って~」という声に、手を振りながら、ひきつった笑顔を返すことができていたのだがゴール後の感想「結構、シンドイかも・・・」

 3日目には正直、口をきくのもシンドイ状態で、疲労困憊の極みに達していた。足は一歩踏み出すごとに鈍痛が走り、森林公園に各コースが集結後、市内に戻るパレードの時には足を引きずっていた。「おっ、俺は生きて生還できるのだろうか・・・?」 家族の顔がチラチラ浮かぶ。

 それでも、なんとか120キロを歩き終え、打ちあがる花火のもと沿道の市民の大声援の中、ゴールに到着して「完歩賞」というのを貰うことができた途端に、気持ちが異様に高揚してしまった。 多分、24時間テレビ「愛は地球を救う」のチャリティーマラソンのランナーのゴールみたいなもんだね。 「ええい、歩きついでに、このまま家まで歩いちゃおうかな」と、なんとも無謀なことを考えてしまったものだ。 まあ、約束の時間にはまだ早いものの、当時つき合っていた彼女が、東松山市街地のお祭りの交通規制を避けて、途中にある「いつもの喫茶店」の駐車場まで車で迎えに来てくれる手筈になっていた。 うまくいけば途中で拾ってもらえるだろう。 だが、しかし、20年前に携帯電話が普及していれば、その後の惨劇は起こりえなかったであろう。

 大抵の青春ドラマの場合、そうであるように、彼女の車は私の目の前に終ぞ現れなかったのである。店の名前を聞き違えたのか、時間を勘違いしたのか? 彼女は「待っていたのに~」と言うのだったが、あとで単純に「いつもの喫茶店」が、私と彼女で異なる認識(当時よく使っていた喫茶店が道路を挟んでほぼ同じ場所に左右に別々に存在していた)というオチ(ということはもしかして、俺以外の彼氏とはこっちの店がいつもの店なのかいな)がついて、とてもツライ笑い話で終わったのだが・・・

 とにもかくにも、賽は投げられたのである。ルビコン川を渡りだしては、もう元には戻れないのだ、痛い足を引きずりながら一路我が家を目指す目はうつろ。 途中、車で通りかかった行楽帰りの職場の先輩から声をかけられ、事情を話すと、「いいねえ、若いって素晴らしい!」といたく感激してくれて、「車に載せてくれるのかなあ~」という甘い期待を見事裏切って、「まあ頑張ってくれ!」と缶ジュースを2本くれたっけ。疲れ果てた体に、肩に食い込むリュックザック、2本の缶ジュースが鉛の重しのように応えたなあ。そういえば、当時はペットボトルなんてなかったし・・・。 

 なんとか無事に家までたどりついたものの、3日間合計120キロにプラス、自宅までの徒歩20数キロが加算されたために、翌日の朝、出勤するのに革靴に足が入らなくなるほど足の甲が腫れ上がってしまい、その後の3日間、情けないことに背広姿にサンダル履きで出勤する羽目になってしまった。 おまけに荷物もないのに、2階へ行くのにもエレベーターに乗らなくてはならない。登りヨイヨイ、下りは怖い!というくらいに両膝が大笑いして、いうことをきいてくれなかった。 

 日本スリーデーマーチ、今でも「完歩賞」と記念のメダルを見るたびに、結局、当時の彼女の底抜け脳天気な「ごっめ~ん!」のお愛想笑いを筆頭に、けっこうほろ苦い思い出の数々が脳裏に蘇ってくるのであった。

 「スリーデーマーチか、ツーデーマーチになったら、また参加しよっかな・・・・」

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江川と巨人

 江川事件がきっかけで、愛する巨人との決別の道を選んだわけであるから、当然、江川卓という怪物も嫌悪すべき対象としてその後も、ずっと引きずっている。坊主憎けりゃ袈裟まで憎し、ではないが、あるいは彼が巨人に入らなければ、ナベツネさんがオーナーになる位までは、熱烈なジャイアンツファンでいたかもしれないし、彼の人生の、あるターニングポイントで別の展開となっていたら、たとえ江川事件があっても、巨人も江川も無条件に受け入れていたかも知れない。

 そのターニングポイントとは?

 これは私の母校の世界史の教師からきいた話である。
 彼も、また熱烈な巨人ファンであった。巨人の勝った翌日などは、ほとんど授業にならず、プロ野球ニュースさながら、前日のハイライトシーンの解説に終始してしまうため、教科書を一年間でどこまで終えるかは、すべて巨人の成績に左右されるという類のものであった。
 ちなみに、私が彼に世界史を担当してもらった1975年は長島茂雄が初采配をとり、球団史上初の助っ人大リーガーとしてジョンソン(「ジョン損」と陰口を叩かれたっけ・・)を獲得し、球団史上初のリーグ最下位となった、まさに記録ずくめの1年であったので、確か山川出版の世界史の教科書のかなり後半、世界大恐慌あたりまで進んでしまった、と思う。そのせいか知らないが、私の代の現役合格率は、例年に比べて異様に高かったようだ。

 前置きが長くなってしまったが、その教師のいうことには、江川は少年時代から「甲子園に出場すること、慶応義塾に進学し早慶戦に出場すること、読売巨人軍に入団すること」を3大目標として野球を続けてきたのだという。
 そして、その夢を実現するため、早稲田実業、日大三高(あるいは日大一高だったかも?)、それと私の母校である県立高校を受験したのだそうだが、あえなく全敗。後に江川のドラフト問題の陰で暗躍することになる大物政治家船田中が理事長を務める作新学院に入学することになる。
 志望校すべてにフラレる、という出来事が、その後の江川の波乱万丈の人生(慶応義塾文科系全学部受験不合格で、法政大学短期大学部に進学、ドラフトでも希望する巨人とは違う球団に3度指名されるなど)を予感させるプロローグであったろう。

 かの教師は、中学野球界の怪物「江川卓」が自分の高校を受験するらしい、という噂は耳にしていたそうだが、直接、江川の入学試験の採点に立ち会うことはなく、担当した教師から、とても合格できるレベルではなかったときいたそうだが、「今思えば、多少なりとも目をつぶって、合格させてやればよかった。まことに残念であった」としみじみと語ってくれたものだ。
 私の母校は、春夏7回の甲子園出場を数え、当時の東京六大学や東都大学野球でも何人かのOBが活躍していたが、昭和42年夏の甲子園出場、私の入学前の秋の県大会を制したのを最後に今日まで甲子園出場はおろか、県大会ベスト4どまり、最近では県大会の緒戦でコールド負けしても誰も不思議に思わないくらいのテイタラクである。
 おまけに、高校時代は、学生応援は県大会ベスト4以降、すなわち準決勝・決勝まで勝ち残ったときだけ、というわけのわからぬ不文律の校則のおかげで一度もスタンドでの応援にすら行けなかったのだった。
 自分で野球をするのは諦めたものの、この高校に進んでおけば3年間のうちで少なくても1、2回くらいは甲子園に応援にいけるだろう、というかなり甘~い希望的観測もあって高校を選んだ自分としては、まったくの大誤算であった。何せ、私が中学3年のときの秋の県大会優勝校なのだから・・・ネエ。

 そういう意味でいうと、もう少し、江川卓が野球ばかりではなく、お勉強のほうもしていてくれたら、同窓生として江川卓を尊敬し、巨人も愛し続けられたかもしれないのだ。 う~ん、ザンネン!

 後輩諸君! 誰か私を甲子園に連れてって!

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虚人軍は永久に仏滅です!

 「わが巨人軍は永久に不滅です!」
長島茂雄の引退セレモニーでの名台詞は当時、一世を風靡したものだが、つい最近まで、「永遠に不滅です」だと勘違いしていた。本当は「永遠に」といいたかったのだが、口をついて出ちゃったのが「永久に」だったのだと思えるのがミスターらしいところだ。

 今年の闘い方を見る限り、タイトルとおり「わが虚人軍は永久に仏滅です」ということになりそうだ。

 私は自他共に認める あんち巨人 である。

 俗にアンチ巨人とは隠れ巨人ファンである、という説がある。
なぜなら、「巨人が負けると嬉しい、スカッとする」ということは、ジャイアンツの負け試合に異様に興奮して、東京ドームの三塁側に年間指定席券をもっていたり、テレビにかじりついてしまったりして、少なからずも読売巨人軍の興業に手を貸してしまったりしているからだ。(そういえば、読売巨人軍とはチームの名前であって、球団運営会社の名前ではない。正式には読売興業株式会社という筈だ。会社名が球団名となっていないプロ野球のチームはここだけだったのではないだろうか?)

 私も、我々の世代であれば至極当然のように野球少年であった。小学生の頃、手に入る野球帽といえば多分、関東地方では「YG」マークのものしかなかったし、極端な話、ジャイアンツ以外の11球団はセ・リーグだろうがパ・リーグだろうが、「関係ないね」。 プロ野球とは巨人軍のみが正義の味方で、あとは敵役の勧善懲悪の時代劇の世界だったのである。
 地元の少年野球チームのキャプテンでもあった私の背番号13は王の1番と長島の3番を合わせたものだった。(しかしながら、チーム名は他にジャイアンツを名乗るところがあったため、タイガースであったが・・・)
 そして、クラスメートも例外なく巨人ファンばかりだったし、先生も、家族も、お隣さんも、ということで、そういう意味では、とても幸福な時代であった。

 そう、あの日までは・・・。

 あの日、1978年11月21日。ドラフト会議の前日。俗に「空白の一日」と呼ばれた日。その年の目玉は作新学院職員の江川卓投手。過去2度のドラフトでそれぞれ阪急ブレーブス(1973年)とクラウンライターライオンズ(1977年)からの一位指名をけって、相思相愛の巨人入りに執念を燃やしていた彼が、電撃的に巨人軍と契約を交わしたのであった。前年のドラフト会議から1年間は指名球団以外と交渉できない、という規定の一年間(365日)が過ぎた、と自分勝手な解釈をした巨人軍。球界の盟主、紳士と標榜する球団のとった行動は、当時、多くの批判にさらされ、良識ある多くのファンが巨人から離れていった。その中のひとりが私である。

 まさに、球界唯一の正義の味方だと信じていたチームに裏切られたのであるから憎さ百倍である。いってみれば、助けを求めようと笛を3回鳴らして呼び出したマグマ大使に、いきなり背後から後頭部を鈍器のようなもので強打されたようなものである。「巨人なんてもう大キライだ!地獄へ落ちろ!」信じていた者に裏切られる、これほど辛いことがありましょうや。断腸の思いで、私は読売巨人軍に絶縁状を叩きつけたのであります。もちろん、以降、読売新聞とも契約をしておりません。

 その夜であったかは定かではないが、谷村新司のセイヤングで、チンペイとバンバンが怒り心頭に発して、「巨人ファンを辞める」宣言を発したのを覚えている。(でも、なぜ、ふたりとも関西出身なのに巨人ファンだったのか、そっちのほうが不思議だった印象が強い)

 かくして、当時、大学野球の応援で訪れた神宮で、練習風景を間近に見て親近感を抱いていたヤクルトが球団創立29年目で初優勝した勢いに呑み込まれるように、熱血ツバメ応援団に華麗なる変身をしたのであった。

 で、あるから、正確にはアンチ巨人とはいえない、ヤクルトファンなのだが、やはり、裏切り者巨人の敗戦をいつも願っていることに変りはない。もちろん、ヤクルトが勝って、巨人が負けた日の気分のよさといったら、もう最高だし、その逆のパターンは最悪である。

 なんで、青木の200本安打をもっとマスコミは取り上げないのだろう?

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