CDの整理

 去年の3月に、ほぼ一週間かけて自分の部屋を長男に明け渡し、長男の部屋に二男を昇格させ、二男の部屋、つまり一番狭い6畳間に自分が移り住んだのだが、その引越し作業の中で、手付かずのままだったのが、400枚を越えるCDの整理だった。とりあえず、ほとんど聴くこと無いであろう200枚近くを近くのブックオフに持ち込んで、半日かかりで査定してもらい、1万20111117imgp0146_円弱のお金を手にしたのだが、その時に手持ちのままにしたものを段ボール箱に入れたまま、押入れの中にしまっていたのだが、何か聴きたいな、という時に、4箱の段ボール箱をひっくり返して探し出して、みたいな非効率的なことをしていたので、正月休みを使って、なんとかせにゃと思っていたのだが、朝から機嫌よく酒など飲んでしまうと、その気も薄れ、結局、一念発起の末、この土・日で手をつけることにした。

20111117imgp0153_  幸い、3月以降、聴いたCD、約80枚ほどは別の段ボール箱に移し変えていたので、これはそのまま「お気に入り」ということで、書棚の空いたスペースに押し込んだ。実は昨年も月に3,4枚のペースで購入していたので、それなりに増えていたのだが、残った300数十枚のCDを、演奏者毎に整理し、これまで文庫の書棚にしていたものに詰め込んだ。さらに、あまり聴くことも無いだろうと思われる100枚近くが、結局、またダンボール箱にお蔵入りとなった。

演奏家別所有枚数5枚以上は以下のようになった。

1.マルタ・アルゲリッチ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24枚
2.小澤征爾・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18枚
3.ヘルベルト・フォン・カラヤン・・・・・・・・・・・・・・15枚
4.ブルーノ・ワルター・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13枚
4.アリス・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13枚
6.ウィルヘルム・フルトヴェングラー・・・・・・・・・・9枚
7.レナード・バーンスタイン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8枚
8.カール・リヒター・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7枚
8.阿川泰子・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7枚
10.サイモン&ガーファンクル・・・・・・・・・・・・・・・・・・6枚
10.グレン・グールド・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6枚
12.吉田拓郎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5枚
12.カール・ベーム・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5枚
12.谷村新司・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5枚
12.ディートリッヒ・フィッシャーディースカウ・・・・・・5枚
12.麗美・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5枚

意外だったのは、学生時代、積極的に嫌っていたカラヤンのCDを結構、持っていたことと、対極的に、大好きだったベームのCDは3分の1しか買っていなかった。そういえば、ベームの演奏はNHK-FMのライブ録音をエアチェック(懐かしい言葉だなあ・・・)して、カセットテープに取り溜めては、聴いていたので、結構、聴いているつもりになっていただけなのかも知れない。

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コンビニエンス!

 昨年末から、自宅の前の元荒川の護岸工事が始まった。飯場とまではいかないものの、プレハブの現場事務所が建って、仮設トイレや自動販売機などがお目見えしている。片田舎であるから、私の自宅から一番近いコンビニまで20111117imgp0138__2 でも、車で7~8分かかるので、歩いて1分ほどの所にある、この自販機は結構、コンビニエンスである。

  何しろ全品100円であるから、コンビニよりも安い。ソフトドリンクだけではあるが選り好みさえしなければ、かなりお得である。仮設トイレも、土手の上の遊歩道をジョギングしたり、散策している人たちが結構、利用している。

 別に業者の人が寝泊りしているわけでも無さそうなのだ20111117imgp0139__3 が、一晩中、明かりもついているので、街路灯も乏しい我が家の近辺では、ありがたい防犯灯代わりにもなっている。(でも、こんな経費の無駄遣いでいいのかしらん。これも税金だよね~)

 ただし、工期が3月までなので、この即席のコンビには、春の訪れとともに無くなってしまうことになっている。この便利さに目覚めてしまうと・・・ 遊歩道のお休み処として残してもらうわけにはいかないのだろうか?

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見事な隠れ区間賞

 溜飲を下げるとはこのことかな 8区の永井秀篤が1時間6分10秒で公式記録なしではあるが、堂々の区間賞である。 6区の代田修平も59分1秒で3位の成績だった。全体として決してモチベーションが高くはなかったとい思うチーム状況の中で、この記録は立派でした。

 永井が2年生、代田が3年生なので、これに今年ブレーキにはなったが、新庄翔太が奮起し、西島、大家などが復調してくれば、必ずや予選会を突破してくれるでしょう。何よりも、今年、予選会から上がってきた日体大が総合優勝したのですから、励みになりますよね。後は、鬼門の5区を走りたいというスペシャリストの養成が鍵です。平地はまったくダメでも、山登りが得意なランナーよ! 中大を目指せ!

 できれば、今年の悔しさをバネに新庄が5区を走ってくれれば、夢の翔太対決が見られるんですけれどもねえ・・・。

 でも、そうしたら、ああ、どっちを応援しようかしらん・・・ 

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新「山の神」誕生か

 正月の楽しみといえば、箱根駅伝だったのに・・・。母校は二区で躓き、挙句の果てに五区でリタイヤしてしまった。これで、連続シードの記録は28年で途切れてしまい、最悪、今年の予選会を突破できなければ、最多連続出場記録も、という窮地に追い込まれてしまった。 

 母校・中央大学はここ数年、5区の山登りが鬼門となっています。6区の山下りにスペシャリストが揃っているだけに、「ここさえ凌いでいけば、優勝争いにからめるのに」という年が何回もあったわけです。八王子の山の中で練習できる環境は揃っていると思うのですが、何故なんでしょうか。

 こうなると、箱根駅伝のない(正確には母校の出場しない)お正月など考えられない。ふてくされて自棄酒でも呷るしかないところだったが、往路優勝した日本体育大学の立役者、3年生主将の服部翔太は注目です。

 なぜかと言えば、地元鴻巣市の出身だからですし、実家も私の家から極近く、私の父親に言わせると、「ああ、エッちゃんの孫だよな」という位、彼の祖母がウチのご近所の方だったので、私の友人にも親戚筋がたくさんいるからです。

 彼の力強い走りに元気をもらって、明日のオープン参加の母校の選手諸君の応援をしたいと思います。

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一富士 見たか 三・・・

 もちろん、初日の出は何回も見ているが、残念ながら自分の部屋から見ることはできない。東側の隣家の屋敷林が落葉した後でも、かなり密集した枝のせいである。そこで、パジャマを着替えて、簡単な防寒対策をして、でも履物はサンダル程度で、自宅から50メートルほど歩いて、元荒川の土手の上に行かなければならない。

 神々しいまでに凛とした冷気の中を、吐き出した自分の生温かい白い息を浴びて、土手を下流に向かって歩き出す。上空はもう青空といっても良い、西の空には去年の姿をひきづったままの白い月が浮かんでいる。少し雲がかかっていたので、多分、初日の出は顔を出しているのだろうが、自分の肉眼では捉えられない。20111117imgp0127__3

 7時8分、ようやく陽光が輝きだしたと思うと、瞬く間に辺りが真っ白になった。川面には、カワウやらカモやら水鳥たちが悠々と波紋を広げながら上流に向かって泳いでいる。以前と違い、土手の上の霜柱を踏む音や、雑草の霜の輝きやらといった光景は無い。昨年、遊歩道として整備されてしまったので、アスファルトを踏む乾いた靴(サンダル?)音だけが響いている。

 ふと目を西の方に向けると、雪をいただく富士山があった。冬の夕暮れに暮れなずむ黒富士は普段、見ているが、思えば元日の朝、こうして富士山を見たという記憶がない。感慨に耽っている内に、どんどん太陽が上昇して、辺りが明るくなるにしたがって、富士山の姿はぼやけてきた20111117imgp0135__3 。こうして、一瞬の間だけしか顔をのぞかせないから、馴染みではないのかも知れない。

 「一富士 二鷹 三茄子 四扇 五多波姑 六座頭」

 初夢に見たいベスト6ですが、新年早々、実物の富士山を拝んでしまったのだから、今年は良い年になるのだろう。

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臘月独興

いつものように慌しく暮れは過ぎていった。

 昨日、雨さえ降らなければ、餅つきマシンが故障していなければ、半日のロスが、致命傷だったね。まあ自分の部屋が片付いていないものの、応接やトイレなど共有スペースだけは、なんとか掃除できたので良しとしましょうか。

 プー太郎の長男は朝からバイト、高校受験を控えた二男は塾で合宿中、四半世紀連れ添った細君と二人だけの大晦日。特別に交わす会話もないし、せっかくの手打そばを玄関を掃除している隙に、料理音痴の細君がゆでてくれたものだから、まったく締りのない年越しそばとなってしまった。例えば市販のスパゲゲティの袋に「茹で時間7分」とあれば、10分は茹でなければ気がすまないというポリシーは、四半世紀徹底すれば、見事なものだが、家族はたまったものではない。「アルデンテ」などという言葉は細君の辞書には無いでんて・・・。冷たい蕎麦なのにヘナヘナに伸びきった物体をズルズルすすり上げ、やっぱり今年は最後までついてなかったんだな・・・と変に納得しつつ、除夜の鐘を叩きに出かける気力も無く、晦日祓いをしおえた途端に布団にもぐりこんだのであった。

玄冬迫りて正に嘆くに堪え (玄冬律迫正堪嗟)
還って喜ぶ 春に向かはんとして 敢えて賖ならざることを(還喜向春不敢賖)
尽きなと欲する 寒光幾ばくの処にか休まん (欲尽寒光休幾処)
将に来たらんとする 暖気誰が家にか宿らん (将来暖気宿誰家) 
氷は水面を封じ 聞くに浪無し (氷封水面聞無浪)
雪は林頭に点じ 見るに花有り (雪点林頭見有花)  
恨むべし 未だ学業に勤むることを知らずして (可恨未知勤学業)
書斎窓下 年華を過ぐさんことを(書斎窓下過年華)

道真が14歳のときに作った漢詩「臘月独興」である。天神様におすがする機会も多くなりそうだが、来年は今年もよりも少しだけ良い年になりますように。

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白鳥の歌~美しき5月に

 その日は唐突にやってきた。5月18日、不世出のリリックバリトン、ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウの死。奇しくも、その日、僕は偶然にも、その日、車の中で聴くためのCDとして、ディースカウの唄う「詩人の恋/リーダー・クライス」(伴奏:アルフレッド・ブレンデル)を出勤前にチョイスしていた。翌日の朝刊で、彼の死を知った。虫の知らせというやつかも知れない。

 僕が彼の歌声を初めて耳にしたのは、高校時代の音楽の授業だった。週に一度の音楽の授業は2時限連続で、初めの1時限が歌唱で、2時限目は音楽鑑賞で、LPレコードや、先生が録音したNHK-FMの録音や、NHKのクラシック番組の録画ビデオの鑑賞だった。曲はシューマンがハイネの16の詩に作曲した歌曲集「詩人の恋」。それが、5月だったかどうか定かではないのだが、音楽の教科書でも初めの方に「美しき5月に」は掲載していたと思うので、多分春先だったと思う。美しくも恋の予感に胸を焦がす、不安な気持ちをにじます、透明で甘い彼の歌声に大いに魅せられた僕は、このシューマンの歌曲集と彼が生涯の友となる予感を感じた。1974年、高校1年の春に聴いた録音だったから、多分、伴奏はエッシェンバッハだったのか、それとも来日公演時の小林道夫氏の伴奏だと思うのは、音楽の田尻先生が「これが49歳の人の声には思えないでしょう」と言った言葉を、何故か覚えているからだ。15歳のニキビ少年にとって、49歳の御祖父さんらしからぬ、その余りにも若々しい声に唖然としたのだと思う。

 以来、5月になると、無性にこの曲が聴きたくなる。それももちろんフィッシャー=ディースカウの歌声で・・・。それほど好きなのに、シューマン以外は、シューベルトの3大歌曲集とマーラーの「さすらう若人の歌」、僕の所有する彼のLPレコード、CDは多くない。大学時代に合唱団にいた僕にとって、その当時、一番欲しかったものは、ディースカウの声そのものだった。彼の歌い方は真似できても、彼の声質には全然近づけなかったからなあ。

 あれから38年、美しき5月に帰らぬ人となった彼・・・、まだ死因が判らないようなので、このブログにどうコメントすればよいかためらっていたのだが、あれから毎日、この曲を聴いている。こんなに若々しいのに、この声の主はもう居ないのだと思うと、この減7度の美しくも不安げに響く和音から始まるピアノ伴奏が始まると、彼の声を聴く前に、涙が出てくる。歌手の死で、こんな悲しい気持ちになったのは、1980年に亡くなった世紀のカウンターテナー、アルフレッド=デラー以来のことだ。あの時は、秋葉原の石丸電気にフランスのハルモニア・ムンディから出たばかりの彼のLPを予約していて、それを受取に行く日に、彼の死をNHK-FMの何かの番組で知ったから、余計にそんな気持ちになったのだと思う。

 いずれにしても、僕にとって、彼の白鳥の歌は「美しき5月に」なのである。合掌・・・

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こどもの日は大人の日

ようやく五月晴れとなった今日はこどもの日。国民の祝日に関する法律第2条によれば、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。」日となっているから、母の日でもあるのですね。

昔のように、鯉のぼりが優雅に空を舞っている風景は家庭レベルでは、ほとんど見られなくなったが、薫風にざわめいている木々の葉も新緑色は昔も今も変ることなく鮮やかです。僕は特に、この時期の柿の葉の緑が最も初夏をイメージする色だと思っています。そして視線を足元に転じれば、これもあっという間に、地面から溢れ出てきた雑草の緑にため息・・・。

今日は、埼玉県内のラグビースクールの指導者講習会が、上尾市の埼玉県スポーツ総合センターで行われました。いかにも小学生のパパ、ママという年齢の方から、お爺ちゃん位の年齢まで幅広く40人ほど集まったでしょうか。午前中は、新緑が目にまぶしい雑草の覆い茂った広場で、1時間30分、ストレッチやら、ボールを使ったオープンゲームを中心に、かなりハード(自分にとっては)なメニューでしたが、通行人の視線では、「いい年をした大人が、大勢でギャアギャアボールに戯れて、泥んこになって、まあ・・」というような光景だったと思います。「ラグビーは少年を最も早く大人にし、大人にいつまでも少年の気持ちを持ち続けさせることのできるスポーツだ」とは、確か元フランス代表の名フランカー、リブ選手の有名な言葉ですが、いつまでの少年の気持ちを抱き続ける人たちが、こんなにもいるのだなあ・・・」といたく感心した次第です。

もちろん、この感覚は午後の座学のワークショップでも引き継がれ、各グループが額と膝をつき合わせて、カンカンガクガクする光景は、まさしく中学校のグループ学習かな? すっかりリフレッシュした(若返った)面々が、明日の各スクールの練習で、どんなコーチングを披露してくれるのだろうか? 楽しみです。

家に帰って、汗を流そうと風呂に入ると、菖蒲湯でした。邪気を払い、身も心も洗い流して、飲んだビールは美味くない筈がないよねえ・・・。

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産毛といううぶなヤツ

1959年1月10日は何曜日だったのだろうか?

午後9時40分 小雪がちらついていたそうだ。

身長 50.5cm  体重 3,075グラム

胸囲 31cm  頭囲 32cm(あの頃から頭でっかちなのか・・・)

出血も少なく、自然分娩だったらしい。

 25年前に母親が亡くなり、その一年後、結婚をして、母親が見ること無かった新築した家に、母親に紹介できなかった妻と住み始めた。その後、敷地内にあった母親と暮らしていた古い家の雨漏りがひどくなったため、取り壊した際、押し入れの隅から、僕や弟の幼稚園、小中学校時代の作文や、絵などと共に母子手帳が見つかったのだった。

 「そんなもん、取っておいてもゴミになるだけだ、くだらねえ!」Imgp5145_3

 家族愛という言葉にはまったく縁のない父親が、吐き捨てるように言って、裏の畑で火をつけて燃やそうとしたところを、妻が機転をきかせて危機一髪で救出してくれ、今は僕の手元にある。臍の緒の入った桐箱も含めて、アルバム以外の思い出の品はほとんど灰になってしまったが、母子手帳の中から、ちり紙に包まれた産毛が見つかった時は嬉しかったものだ。あと、何かの紙くずかと思って開いたら、僕が小学館の月刊誌「小学三年生」に投稿した「いなかっぺ大将」の似顔絵が掲載された同誌のスクラップだったのは涙ものだった。自分ですら忘れていたのに・・・・

 この産毛というやつ、今よりも黒々として毛並みの良いのが、ちょっと複雑な気分になる。

今日、52回目の誕生日。雪が降り出しそうに寒い日だった。

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牛丼一筋八十年から30年

 カップラーメンと同じく、時折無性に食べたくなるものが牛丼、それもYOSHINOYAの、いわゆる吉牛(よしぎゅう)と呼ばれるものである。僕にとっては青春の味といってもよい。それが創業111年記念で一杯80円引きで21日まで食べられるというのだ。

 「牛丼一筋80年」というCMソングにのって、あれよあれよという間に全国に店舗を広げて、海外進出までしてしまったのは、僕が大学時代であった。ということは、牛丼一筋でなくなってから30年くらいたったのだろうか。当時の並盛りは300円。喫茶店でコーヒー一杯250円から300円の時代であった。高校時代に郵便局で時給300円でアルバイトしていたから、結構、貧乏学生にとってはそれでも高かったなあ。何しろ、当時の中央大学駿河台校舎の生協食堂ではカレーライスやたぬきうどん、きつねうどん、ラーメンが一杯80円で食べられた。つまり、カレーライス&たぬきうどんでも160円だったから、300円の牛丼は滅多に食べられなかった。それでも当時の吉野家の松田社長が中央大学出身であったせいか、その生協食堂の目と鼻の先に吉野家はあって、たまにパチンコや競馬で儲かった先輩に奢ってもらったりしたものだ。吉牛との出会いはまさしく、僕が新入生のときにサークルの4年生の先輩に連れて行ってもらったこの吉野家だった。20100115

 「たまにはこういうのも美味いだろう!300円で安いしな。同じ300円でもコーヒーじゃ腹は膨れないし」

 三重県伊勢の出身のK先輩は、サングラスの奥の目をきらきらさせて、牛丼をワシワシと口の中にかき込みながら、そうのたまったものだ。

 1978年に大学が多摩に移転すると、生協食堂のカレーライスとたぬきうどんが一気に110円に値上がりした。つまりカレーライスとたぬきうどんを両方食べると220円になってしまった。そして、何故か吉野家も後を追っかけて、大学敷地内のバスターミナルの中に開店したが、こちらの値段は変わらなかった。だが、いかんせん、当時の多摩校舎のまわりは僕の実家よりもド田舎で、地名だけは八王子市東中野と都会風だが、多摩動物公園駅から大学裏門まで長く延びる通学路のまわりは雑木林だし、ところどころに「マムシに注意」の立て看板はあるし、白門(大学正門)を出て当たりを見渡せば、まだ藁葺き屋根の家が見えたし、と本当にここは東京都なのか?といぶかうほど。当然、駿河台時代は大学を一歩出れば、喫茶店や定食屋を選ぶのに苦労しなかったのに、陸の孤島然とした状況の中、必然的にひとたび大学に来れば、一歩校外に足を踏み出せば、いつ食べ物にありつけるかわからない、餓死と隣り合わせの厳しい現実が待っているものだから、必然的に吉牛のお世話になることが多くなった。

 特に、午後9時に所属していた合唱団の練習が終わり、校地の結構端の方にある練習場から15分ほど歩き、バスターミナルにて本数の少なくなったバスを待つ間、どうしてもフラフラと吉野家の中に入ってしまう習慣ができてしまい、おまけに、当時、飲み会のあとは新宿の深夜喫茶やゲームセンター、ビリヤード場などで過ごし、始発電車に乗り込む前に、やはり吉牛である。例え、その飲み会を養老の滝でやったとしても、養老牛丼には目もくれず、吉野家にて締めの牛丼大盛りに生卵に味噌汁で500円という定番メニューであった。ひどい時には一日三食牛丼というときもあった。そのうち朝、起きてみたら角が生えていたり、血液型がY型に変わってしまうのではと心配するほど、食べまくったのである。

 そして、牛丼を食べる度に、K先輩のサングラスを思い出すのだ。10年ほど前にOB会で顔を合わせたきりだ。どこでどうしているのやら・・・相変わらず、牛丼食べてるだろうか。

 「つゆだくなんて邪道だなあ。そんならお茶漬けでも食えばいいのにな」

とでもつぶやきながら・・・・。

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